生きづらさを抱えた人が自分やまわりの人の“愛”に気づくために
突然ですが、みなさんは“愛”についてどんな印象を持っていますか?
生きづらさの背景には、必ず“愛”の問題が存在しています。
幼少期の家庭環境から受けたトラウマだったり、
友達付き合いや恋愛で傷ついた過去だったりと、
人によって違ってくるものの、生きづらさをひもとくと、この“愛”が原因として存在しています。
人は生きていると、“愛”の問題から逃れることはできません。
ちなみにこの“愛”という言葉、私自身もそうですが、ちょっと重すぎてピンとこないなという場合は、
“相手を純粋に思いやる気持ち”とか、“相手の存在そのものを尊ぶ気持ち”、などと変換するといいかもしれません。
そして私は最近、生きづらさを解消するためには、この“愛”に気づくか気づかないかが重要だということに、気がつきました。
逆に言えば、生きづらさを抱えていたとしても、“愛”に気づくかどうかで回復することもできるのではないかと思いました。
ということで今回は、“愛”という重くなりがちなテーマを、なるべくサラッとわかりやすく書いていきたいと思います。
なぜ愛が見えなくなるのか
“愛”について考えたとき、私には思い浮かぶ人が2人います。
1人はとても仲が良かった友人で、私はその友人のことを親友だと思っていました。
“太陽と情熱の国”から来たその友人は、その国民性の通りとても陽気でポジティブで、誰からも愛されるような存在でした。
“スイと疎遠になるのは嫌だから”と、わざわざ本国の住所もメールで教えてくれるような間柄でした。
もう1人は、以前働いていた職場で出会いました。
彼女と私はともに、似通った家庭環境を抱えていました。
この2人に共通していることは、
どちらも涙を流し合いながら、本音を打ち明けお互いの経験を分かち合ったこと。
そして結果として、疎遠になってしまったということです。
特に、親友だと思っていた友人と連絡が取れなくなってしまったときは、
原因は自分にあったことは自覚していても、静かな悲しみが押し寄せてきて、それからしばらくはその悲しみを拭い去ることができませんでした。
そんな経験から年数が経ち、どうしてそんなにも分かち合った人たちと疎遠になってしまったんだろうかと考えたときにふと、
自分が人を幸せにする存在だという視点が抜け落ちていた、ということに気がつきました。
当時の私は、自分の存在を過小評価していてうまくいかなかったのだと考えると、ストンと腑に落ちる感覚がしたのです。
愛の存在を否定することで身を守っていた
なぜ私は、自分が人を幸せにする存在だと思えなかったのでしょうか。
ここでちょっとお恥ずかしいのですが、私が愛について過去の日記に書いた部分を引用します。
私は余裕のない両親の下で育ち、いわゆるアダルトチルドレンとして、愛をまっすぐに信じることができずに大人になってしまいました。
今思えば決して両親に愛がなかったわけではなく、たんに両親と自分の“相性”が悪かっただけなのだと思えるのですが、
当時の私は、両親から愛されていた実感が持てなかったことから、しだいに“愛なんて無価値だ”と、愛の存在を否定してしまっていました。
この行為は、心理学でいう“合理化”とか、“すっぱい葡萄理論”にも似たようなところがあります。
欲しかったものが得られなかったので、その欲しかった存在そのものを否定することで、獲得できなかった自分が傷つくことを防ごうとしていたんです。
しかし、ここで困ったことが起きてきます。
愛を信じられないということは、人から愛される自分の存在が信じられず、また自分自身に対する愛も信じられなくなってしまう、ということです。
結果として、私は愛の存在を否定してしまったことで、自分の存在が相手にとってどれほど重要なのかまで思いをめぐらすことができず、
自分の存在を過小評価するようになってしまいました。
愛の存在を否定することで身を守ろうとした結果、自分の存在そのものの価値を見失ってしまっていたのです。
疎遠になった=なかったことではない
仲がいい間柄ほど、疎遠になってしまうとそのダメージはとてつもなく大きくなってしまいます。
そして、“なんて自分はダメな人間なんだろう”とひどく落ち込んでしまい、人付き合いにおいて、苦手意識や劣等感や罪悪感を抱えてしまいます。
けれど、ここで大事になってくるのが、
疎遠になった=なかったことではない
ということです。
人との関係性は、学校のテストと違って数値化できません。
私にとってはあの人は何点、あの人にとって私は何点、といったように、目に見える形で、人との関係性を評価することができないのです。
その上、自分に自信がなければないほど、相手にとっての自分の存在を軽んじてしまうところがあります。
その結果、関係性がうまくいかず疎遠になり連絡が途絶えてしまうと、まるでそれまで交流していたことがなかったかのように感じられてしまうことがあります。
どれだけ分かち合ったことがあったとしても、0点の成績表を受け取ったかのように、その交流が全てなかったことのように思えてしまうのです。
けれど、疎遠になったからといって、それまで分かち合ったことが全部なくなってしまうわけではありません。
お互いにきちんと交換し合ったものがあって、そしてそこにはきちんと“愛”が存在していたのです。
自分も相手に“愛”を与えていたし、相手からもきちんと“愛”をもらっていたのです。
疎遠になってしまったことで、
ああ、自分は愛されないのだ。
ああ、自分は人を愛せないのだ。
と、自分を責める必要はありません。
傷つけてしまったかな、悲しませてしまったかなと、後悔する必要もありません。
なぜなら、当時の自分にはその関係性を維持するだけの余裕がなかっただけなのです。
当時の自分には、どうすることもできなかったのです。
そしてなによりも、そうやって自分に言い聞かせることが大事になってきます。
本来、人を愛することに失敗ということはなく、愛に気づくか気づかないか、ただそれだけの違いでしかないのです。
自分が幸せでいることが他人を幸せにする
自分の中の生きづらさを突きつめたとき、私は“愛”の存在を否定していたことにたどりつきました。
正式には、自分の中や、家族やまわりの人からの“愛”があることは知ってはいても、はっきりと認識することができていませんでした。
“愛”の存在を否定していたことに気づくのに遅すぎたかもしれませんが、それだけ自分の中で“愛”に対するコンプレックスが強烈だったように思います。
そして、世の中にはそういった人がたくさんいるのではないかと感じます。
人はときとして、
高価なプレゼントや、連絡の頻度やいかにマメかで人からの愛情をはかろうとすることがあります。
自分にどれだけの“お金”や“手間”や“時間”をかけてくれたか。
自分に対してどれだけのものを費やしてくれたかで、愛情を感じようとします。
けれど、本当に人を幸せにしようとしたときにその人が必要なことは、その人に向けられた“行為”ではなく、ただ自分が幸せでいることではないかと思うのです。
自分がたくさん笑っていればいい。
そうすれば、まわりの人はそれだけで幸せになる。
その考えは何より、自分が愛されていて、自分は人を愛することができるという確信がないと持てません。
私は愛の存在を否定していたことに気づいたことで、
自分に必要なことは、もとからあった自分や自分に注がれた愛の存在に気づくか気づかないかなのだ、ということを知りました。
自分がたくさん笑っていればいい
それだけでまわりの人の幸せにつながる
と、いかに思えるかが重要になってくるのです。
あなたが幸せでいることで、幸せになれる人がたくさんいます。
そして、それでいいのです。それだけでいいのです。
難しく考えなくていいのです。あなたはいつでも、あははと笑っていさえすれば、それでいいのです。(もちろん、無理のない範囲で)
“愛”の傷やトラウマに気づくことは、相当な痛みが伴います。
私自身、この記事を書いているからといって、“愛”の問題が完全に解決したわけではありません。
ゆっくりでいいのです。少しずつでいいのです。
自分はもとから愛される存在だったこと。そして、ありのままの自分でいることを通して人を愛したり、幸せにすることができるということ。
焦らずに、できること、気づいたことから、少しずつ実践していけばいいのです。
生きづらさを抱えた方は、どうかご自分を責めずにまず何よりも第一に、傷ついたあなたを抱きしめてあげて下さい。
それが必ず、あなたの幸せのみならずまわりの人の幸せにつながるのです。
◈おまけ◈
最近買ったオラクルカードを引いたら、ぴったりな言葉が出てきたので載せておきます。
“Your thinking will either make your happiness or take your happiness.
You choose."
“あなたの思考は幸せをつくり出しもするし、あなたから幸せを奪いもする。
あなたの幸せは、あなたが選べる。”
Self-care Cards: A 52-card Deckより
ここまでお読みいただき、ありがとうございました😌💖
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