見出し画像

届く声と届かぬ声

完璧になろうと努力を重ねても、誰しも完璧になることはできない。
また、完璧ではないからこそ次なる目標ができる。
このような日々の積み重ねが人を進化させるのだろう。
何より人は進化することで多くを学ぶ。
もしかすると、完璧という概念には目標といった意味も含まれるのかもしれない。

歳を重ねると、自身がより完璧な人間であるには程遠い存在であることに気付く。
それでは若い頃はどうだったのだろう?
などと記憶の呼び起こすと、個人的な経験だがボキは小学校三年生に上がるまでまともに喋らなかった。
どちらかというと喋ることを拒否していたのだ。

例えば親に買い物を頼まれることが嫌で仕方がなかった。
店の人と喋らなくてはならないからだ。
顔見知りの店の従業員であればメモ書きを見せれば済むことだが、口頭で説明しないと相手に伝わらない買い物が特に厄介であった。
何度か買い物の品を指さして『これを下さい』と意思表示をしたところ、『ちゃんと口があるんだから、何が欲しいか言いなよ!言わないと売らないよ!』と注意されたことも多々あったものだ。

大人となった今考えてみると、うまく喋ることができなかったというよりは、人と接することが苦手だったのだ。
単純にコミュニケーション能力が欠如していたのだろうが、苦手な言葉、例えばさ行、は行の発音が苦手であった。
中でも『パ・ピ・プ・ペ・ポ』のいずれかの発音を発すると言葉がうまく言えず吃音となってしまう。
幼い頃ほどではないが、大人になった今でも注意せずに喋ろうとするとこういった状態となる。

そりゃぁ、ボキなどまだマシな方で、もっと吃音で苦しむ同級生も見てきた。
今であれば対処法もあるだろうが、昭和という時代はひとクラスに四十人以上に対し一人の担任だったのが当たり前だったこともあり、全ての生徒に目が行き渡ることが不可能だ。
このような環境と重なった絵本を最近になり知った。

画像1

タイトル『ぼくは川のように話す』

この作品の文章を担当した詩人のジョーダン・スコット氏も幼少期に吃音に悩まされ、実体験をもとに描かれている。

また絵を担当したシドニー・スミス氏が描く表現力も優れている。

画像2

主人公の男の子は見た状態の言葉を発しようとすると、最初の文字が口の中で引っかかったり、絡みつくと表現している。
吃音で悩む人々の代弁をしていると感じ取れる言葉遣いに気持ちが穏やかになった気がするのだ。

久々に書店に足を運び手に取った優れた作品である。

ボキの拙い文章力ながらも、気になった方がおられたら是非とも読んで頂きたい作品だ。
この作品を通し障害や苦手なものと照らし合わせて進めるのもヒントが見つかりそうな気がする。

どこにも完璧な環境や世界は存在しないのかもしれない。
でも、完璧に近づくことはできるだろうし、なろうとすることも可能だと思う。
いや、信じたいかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?