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原動力

何かを成し遂げるには目標が不可欠である。

おぼろげな記憶を紐解くと、経験値数が乏しい若い頃は目標が定まらず苦労したものだ。

今にして想ば、懐かしくもあり、残酷にさえ感じる。
何れにせよ、断片的に甘味さを覚えるから掴みどころが無い所がはがゆさを覚える。

わたし、もしくは、ぼくを意識した時の事柄を考える。
人格が形成される以前のじぶんは常に手探りのしていた。
それは無理も無い。複数の道を目にすると、左右すら区別できなかったのだから。

要するに課題以前に答えも数式すら理解していない事が大きな問題であったのだ。

ごく些細な物事を経験し、あらゆる壁に打ち当たる。
一年前といまのじぶんと、かつてのじぶんを照らし合わせると、若干ではあるが身体が成長している。
おそらく、こういった背景が形成の証なのだろうと当時のじぶんは解釈した。

取り柄の無いじぶんは権力のあるものを前にすると萎縮していた。
じぶんがより小さな存在であると確信を覚えるたび、糸が通らない針の穴の如く息を潜めている始末。

学校や社会で覚える言語が明確になるにつれ、じぶんが置かれた状況、または現状が乏しく感じる。

足元に映る影が存在しつつも、じぶんの存在意義が不透明と感じるときほど虚しいものは無い。
このような時期に最も影響を受けた偉人を三人挙げるならば、マルセル・デュシャン氏と白洲正子氏と岡本太郎氏である。

一見すると共通点の無い方々だが、『固定観念』を覆すという部分は共通していた。

それから、じぶんは解放感に満ちあふれ他人が描く教養や知性といったしがらみから逃れ、ようやく「私」を形成できることが出来た。

『完璧』を求めたら疲れるだけだ。
これらを明確に説明したのは岡本太郎氏の『今日の芸術』という著作である。

簡素に説明すると、人は同じことを繰り返す行為は愚かであると記載してある。
とても乱暴に聞こえるだろうが、個人的には的を射る助言であると感じた。

一つの物事に捉われるのは芸術では無く芸事なのだ。
生前、岡本太郎氏が口癖のように語っていた「芸術は爆発」といった表現は、『壊す』行為では無く、『原動力』に繋がるものであると説明されている。

擬音では無く明確な目標を意図して捉えた表現でもある。

改めてじぶんを無に例えるたび、約十年以上前の紙切れが過去へと誘う。

2011年に東京国立美術館にて、岡本太郎氏の生誕100年を機に開催された展示が今もなお脳裏の奥底に灯火として宿る。

会場を出ると三角くじが用意され、観覧者はそれを引く事が許される。

一枚を手に取り広げると、『行きづまったほうがおもしろい。だから、それを突破してやろうと挑むんだ。』といった文言に感動した。

当たりなのか外れなのかはさておき、手に取った三角くじが今も過去のじぶんの原動力となったと語っても過言では無い。

因みに、マルセル・デュシャンの『レディ・メイド』=『既製品』は角度を変えると立派な芸術作品であるといった勝手な解釈(後にファッション・デザイナーとして名高いマルタン・マルジェラはデュシャンの技法を応用したと更に勝手な解釈をする)した後、白洲正子氏が整った芸術作品以外に『いびつ』な手法を称賛した『かたち』を紹介した功績は多大であると、これまた勝手ながら痛感するのだ。

何が出来るかは問題では無く、何をしたいのかが重要課題なのだろう。

久しぶりに時を重ねた三角くじを手に取り感じた答えでは無く、課題であった…




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