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書評 『三行で撃つ』

 小説家志望ならば物の書き方の本を読んではいけない。大昔に読んだ本にあった言葉だけれど(しかし、それは物の書き方の本の一節だったから、自己矛盾を起こしていると思う)、私は物の書き方の本を結構読む。

 物を書くと一口に言っても、誰が、どういう媒体に書くのかによって、注意すべき点は少し異なるだろう。最初の数ページに「小説はぬるい」とあって、具合が悪くなったけれど、それでもこの本には得られるものがあった。

 小説がぬるいのは、初めからこの本を読もうと決めて手にする読者相手だから。新聞や雑誌、ネットの記事は、読み飛ばされ、埋もれる可能性が高い。最初の三行で撃たないといけない。それを読んで、私にも得るものがあるかもしれないと思った。私は川上弘美さんを真似て、読んだ本や感じたことをメモするノートを作っているのだけれど、この本の中のいくつかのフレーズを書き写した。

 少し愚痴っぽくなってしまうが、なんのジャンルにせよ、何かを指南している本は、先の章で言っていることと、後の章で言っていることが矛盾を起こすことがある。そのことに混乱する。素直に読み進めることができなくなる。

 この本は、自分の感じ方や考え方を守るために、流行からは距離を取れ、孤高になることを恐れるなと言う一方、世の中と断絶していては面白い人間にはなれず、したがって面白い文章も書けない、関心を持て、面白がれとあり、どちらが正しいのだと思う。

 程度問題です!

 その通りなのだけれど、それだけだと面白くないので、もう少し考えてみる。

 いくら観察するため、世の中の動きを取り入れるためだと割り切っていても、流行語に触れ、情報の流れに身を置いていたら、自分に他の何かが流入してくることを避けることは難しいだろうし、それらと自分との間に一本線を引くことは体力を要するだろう。

 他方、孤高でいることのデメリットもよくわかる。SNS全盛時代、自分を常に発信していないと忘れ去られる。忘れ去られればあっという間に取って代わられるという恐怖が、視覚化されやすい。森鴎外ですらしばらく書いていないと忘れ去られていた、お前らは文豪でもないのになんだ、恐れずに発信せよ、関われというこの本の主張には一理あると思う。

 結局のところ、停滞がいけないのだと思う。自分でこれと決めて今は孤高でいると、意識してそうするのならばきっと持ち帰るものがあるだろうし、情報収集が必要だからと、漫然とザッピングしていても自分の中に蓄積してはいかないだろう。この本は、新聞記者を含めたライター志望者がメインターゲットだから、情報のメインストリームを掴めというのは、小説家よりもより強く求められるだろうし。

 そういう風に、この本を読むことによって派生して考えを巡らせることが出来たので良かった。

 しかし、文章が上手い人の本を読むと、上記のような相反する主張が出てくることもあって、なんだか誑かされているような、核心の周辺をのらりくらりと見せられているような気がしてきてしまうな。


 ここからは自分語りの余談だが、それは自分自身にも感じることがあって、私は自分の本心が自分でもよく分からない。私の想いは、フラクタルだ。目を凝らすと分岐して、どれが正しいかわからなくなるし、どれも正しく見える。行動は思いを隠すためで、自分に騙されている気がする。

 そんなだから、親しい人が実は私のことを誤解していたのだと気付いた時、それは誤解だ、とかっと熱くなりはするけれど、反論すること能わず、悲しい目で納得してしまう。その人はその人で、私に常にはぐらかされていて、私の心の中に入れている気がしないと感じることもあったのだろうか。あるいは私のことを、目の前にすいかがあるのに回れ右をして叩こうとしている、手のかかる困った人だと思っていたのだろうか。

 そして、そういうの全てが、本当は醜い自分を見ない振りするための誤魔化しのような気がする。

 ごめんね。私は私なりに、真剣にすいかを探していたし、私が瓶につめて流した手紙は、非常に確率が低いことが分かっていてもなお、あなたの海岸に辿り着くことだけを祈って書いたんだよ。

 この記事も、誰かの海岸に辿り着くために書いた、メッセージインアボトル。

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