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Under Dawn, Over Night

「先生ー! 先生ー!」

 まだ声変わりしていない、神経に響く高さの声で喚き散らしながらこちらにやってくるのは、サヌキであった。声は興奮で上ずっているのに、足取りはいやに慎重だ。マルガは書き物の手をとめ、履物をつっかけて外に出ると、サヌキの方に近付いていった。

「なんだなんだ。いつもならすっ飛んでくるのに」

「先生、大発見ですってば」

 サヌキは紙の束のようなものを両手に乗せていた。村で飼っている鶏の卵を運ぶ時のように大事そうにしている。

「お前、また遺跡に行ってきたのか」

 マルガはうんざりした顔を作りつつも、実は少し心が浮き立っていた。事情が許すなら、マルガこそ日がな一日遺跡で過ごしたいのだ。でも彼は教練所で子供に読み書きを教えたり、具合が悪い人を診にいったり、農業の相談に乗ったり、暦の計算をしたりと、とにかく忙しい。何人か弟子もいるが、経験の浅い者では判断に迷うことも多く、結局マルガが出て行かねばならないことが多いのだ。
 マルガはサヌキに子供の頃の自分を重ねて見ている。子供らしい落ち着きのなさが引っ込めば、この子は自分を凌ぐ存在になるだろう。だからサヌキが、マルガにとっていかにもありふれたことを「発見」してきても、それを否定せず褒めるようにしてきた。

「これは……書物だな」

 茶色っぽい布のようなものの間に挟まっている紙は、年月と風雨のために断面がギザギザしているが、横から見ただけでは何百枚あるのか判別しきれないほど薄い。村にも紙はあるが、これとは比べ物にならないほど分厚く、ごわごわしている。この紙を作ろうと思ったら、一体どんな技術が要るのか、マルガにはまるで見当がつかない。

 マルガは書物の上の方にそっと指を入れ、その書物を開いてみた。書物には細かい字でびっしりと文字が書かれている。

「信じられない。古代人はこんなにきっちり同じ大きさや形で字を書けたんですか……」サヌキはマルガの横から書物を覗き込んでいる。

「何をしている。筆と紙を持ってこい」

「はっ、はいっ!」

 紙は一応平面の形を維持してはいたが、表面は綿毛のようにほわほわしている。筆記具を両手に教練所から勢いよく走ってきたサヌキをマルガは手前で制し、息を整えて近付けと指示した。

うどん 小麦粉を原料にして作っためん類。つゆをかけるなどして食す

 一番右上の一文を書き写したところで、紙のかび臭さに耐えきれなくなったサヌキは大きなくしゃみをした。その風圧をまともに受けて、書物はたちどころに粉と化してしまった。

「先生……すみません」

「いや、仕方がなかろう。一文だけでも救えたのだからもうけものよ」

 しかしこの一文、どういう意味だろう。おそらく下の文が「うどん」の説明になっているのだろう。しかし、「小麦」も「めん」も「つゆ」も皆目分からない。「食」とあるから、おそらく「うどん」は食べ物なのだろうということだけは分かった。

◇ ◇ ◇

 サヌキが書き写した文字は、マルガの机が置いてある壁の一角に貼りだされた。ここに貼れば、心当たりがある者が何か伝えてくれるかもしれない。その願いが荒唐無稽であることをマルガはよく分かっていた。サヌキもそのことは分かっていたから、また遺跡で何か手がかりを見付けられないかと思っていたが、今年は大雨、大嵐が多く、水田が泥に覆われたり、低地にある家に水が入ったりで、サヌキのような子供も、度々村の復旧作業に駆り出され、遺跡どころではなかった。すでに収穫量は大幅に減ることが確実で、次の雨季まで生き延びられない村人が出るに違いなかった。子供らが遺物を持ってくる度、今度こそ窮状を救うヒントになるだろうと期待した。しかし先代もマルガもそれらの使い方を解明することはできず、さりとて捨てるのも惜しくて、表面を洗われた上で教練所の物置に保管された。「うどん」もいずれそうなるのだろうか。手がかりが得られないまま、マルガは何か月も悶々と過ごした。

◇ ◇ ◇

「こんな不便なところまで、わざわざありがとうございます」

「なんの。大したことがないようでよかった」

 村の高台、殆ど森の一部と化したような場所にある一軒の家に、マルガは往診に来ていた。今回は自分の持っている薬草が効きそうだから、患者の家族に出された茶も引け目を感じずに頂くことができた。せっかくだから帰りに森の探索をしようと考えていると、病床にある老人が起きあがろうとしていた。

「まだ安静にしていてください」

「いやいや。先生がこちらに来ることはそうそうないじゃろうから、どうしてもお話ししておきたくての」

「はあ」

「わたしには弟がおった。わたしより五つほど下で、小さい頃に大きな病をして奇跡的に一命をとりとめてから、お父もお母も弟を甘やかして、すっかりはねっかえりになった。昔は皆もっともっと貧しくてなあ。それが嫌だったんじゃろう。ある日、『こんなところに居られるか!』と出て行ってしまった。『住める土地はおそらくここだけではない、北に行けばもっと豊かな土地があるに違いない』と言ってな。それから十年か、二十年経ったか。見慣れない衣装の男がひょっこりやってきた。とっくに野犬か熊かにでも殺されたと思っていた、わたしの弟じゃった。土産だといって、この辺りにはないような果実や干した肉、魚などをどっさり持ってきてな。かの地で、村長のようなことをしておったらしい。空になった台車に、この辺りの産物をわずかばかり分けて返してやった。それから何十年、弟はもうここに来ることもなかったが……」

「ええ、ええ」

 年寄りの話は聞くものと、マルガは先代からきつく躾けられていたから、とりとめもない話を嫌な顔せず聞くのは、もうお手の物であった。北の地に恵まれた場所があるとして、一体なんとする。この老人のお伽噺を確かめるためだけに、おそらくは悪路を何日も何日も往くのは無謀だ。森で加工に適したつる植物の枝を大量に得たマルガの頭には、老人の話は残らなかった。

 その一か月後、村に流浪の民がやってきた。マルガ達と似た、粗い風合いの着物を着ていたが、どう染めたのか、赤や青、黄色など派手な色をしていた。古今東西の不思議を詰め込んだ見世物をするというので、復旧作業に追われて疲弊していた村民は大歓迎した。客人をもてなすささやかな酒宴の席で、マルガは団長に紹介された。マルガも村民に混じって彼らの芸を観ていて、理屈が分かる手品も、そうでないものもあった。マルガは技術的な興味から仕組みを訊ねると、団長は商売の邪魔をしない約束で、いくつか種明かしをしてくれた。

「あなたはそういった知恵をどこで学ばれたのですか」

「そうですねえ。色々な集落を回っておりますから、そこの村人に聞いたり、代々伝わる技を継承したりといったところでしょうか。こんなに南下したのは今回が初めてです」

「では、普段は北の方に住んでおられるのですね」

 マルガの腰は話しながら半ば浮いていた。あの紙を壁から引き剥がすと、団長に見せた。

「ほう。古代の書物から得られたものですか。さすがに私も全ては分かりませんが……小麦は、北の方での主食にあたるものだと思います」

◇ ◇ ◇

 翌朝、サヌキは普段冷静なマルガが、立ったと思ったら座ったり、うろうろ歩いてはピンと直立不動になったりしているのを、異常なことだと戸惑っていた。

「よし、北上してみよう」

 普段とは立場が逆転した。サヌキはマルガに湯を入れて落ち着くように言い、昨晩何があったのか聞きだした。

「教練所はどうするんです。先生がいなくなったら、この村は立ち行かなくなりますよ」

「しかし……」

「僕が行きます。僕なら、もし目的地に辿り着けずに死んでも、口を糊するべき頭数が減って、村に少しなりとも役立つでしょう」

 マルガは団長に事情を話し、また北に戻るという一団にサヌキを連れて行ってもらうことにした。サヌキは道中よく働いた。団長や団員と打ち解け、変わっていく植生を頭に叩き込み、山道で生き抜く知恵を得た。数週間後、辿り着いた北の地には黄金に光る小麦畑が広がっていた。サヌキはあまりの美しさに涙していた。うどん探しの旅は半ば達成したかに思われた。

◇ ◇ ◇

 北の民は「めん」を知らないと言うのだった。

「私達は、取れた小麦を粉に挽いて、水と一緒にこねてから、茹でて食べます。これをミェンといいます。粉にするので、保存が容易です」

 おそらくミェンとは、めんがなまったものだろうとサヌキは思った。ミェンがうどんのことを指すのかは分からないが、かなり近いものであるはずだ。実際にミェンを見せてもらい、試食もさせてもらった。もちもちとした食感はサヌキがこれまで食べたことがないもので、この辺りで獲れる獣の肉を煮込んだ汁と一緒に食すと、目が覚めるほどうまかった。サヌキは小麦の種もみ一袋とともに、意気揚々と自分の村に帰った。

「先生ー! 帰りましたよー!」

 サヌキの行く末を心配していたマルガは、数か月で少しやつれたように見えたが、サヌキの顔を見て、パッと顔が明るくなった。サヌキは小麦のほかにも、道中で得た果実や薬草を籠に詰め込んできていて、話すことは山程あった。しかし、残念なことに、小麦は高温多湿なこの地では育たなかった。

「これではうどんを作れないではないか」

「米で代用しましょう。米を挽いて粉にし、ミェン、つまりうどんを作るのです」

 村の女にも手伝ってもらい、うどんは完成したが、「つゆ」の謎が解けていないことを二人はすっかり忘れていた。ここまできておろおろしている師弟の間に、横から婦人の長が割って入った。

「今なら収穫祭につかうたれがありますよ。とりあえず、それをかけてみたらどうですか」

◇ ◇ ◇

「うーん、これがうどんかあ。これはうまい」

「僕が食べたのは、もう少しもちもちしていましたけどね。でも、十分美味しいです」

「でもこれ、ころころ転がって食べにくいわね。何個かまとめて竹の枝に刺すといいかもしれませんよ」

「それはいい考えですねえ」

 マルガは満足そうにうなずいた。うわさを聞き付けた村人が、うどんを食べに教練所の周りに集まって来ていた。村はひととき、活気を取り戻していた。

 このうどんは、村で初めて作られた日にちなんで、秋の満月の夜、収穫祭の供物とともに天に捧げられることになった。うどんは困窮を救うことは出来なかったが、特別な日のお祝い料理として、村人の心のよりどころとなった。一口大に丸められた白いうどんの玉が、背の高い器に形よく盛られて、夜中燃やされる松明の明かりに照らされている姿は、神々しささえあった。


〈了〉

(4,249文字)


 前々から気になっていた、「ネムキリスペクト」に初参加してみました。ドキドキです。ムラサキさま、はじめまして。ご査収ください。参加者の皆さん、コメント師の皆さん、宜しくお願い致します。今回の課題は「うどん」でした。


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