愛 8/1
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繊細な方、気分が落ち込んでいる方は読まないほうがいいかもしれません。
8/1
おとといは交通事故で亡くなった友達に会いにいった。
小学生の時からの、一番仲のいい友達と一緒にいった。
その子のお母さんとその兄弟、おばあさんと思われる方たちが迎え入れてくれた。
犬が何匹かいて、家の中はにぎやかだった。
お母さんはもちろんひどく落ち込んでいるだろうけれど、それを感じさせないほど気丈にふるまい、終始はきはきした声で、ありがとうありがとうと言ってくれた。
その子の顔を見た。
今にも動き出しそうな、ただ寝ているだけみたいな顔。
友達がその子をあだ名で呼ぶ、愛おしそうな声が忘れられない。
もう柩に入っていたから、少し動かされると、あれ、今動いたんじゃない、と思わされ、そのまま、ばあ、と起き上がりそうだった。
その顔のなんと凛々しいことか。
会いに行った日は目をつむるだけで、その光景のすべて、その顔のすべてが目の裏に浮かんだのに、もう数日たってしまっただけで、全体像は浮かんでこない。
でも顔のパーツパーツだけは鮮明に思い出せる。
お母さんといろんな話をした。
本当に人は強いと思った。
お母さんは、こんなにも大変なことになったのに、それでも笑顔を見せていた。純粋にすごいことだと思った。
卒業アルバムが役立つ瞬間を初めて見て、なんだか寂しくなった。
私はその子の顔を見てもなお、実感が湧かなかった。
その時はお母さんや遺族の方に共感して、気持ちが溢れた。
本当に突然のことで、だれも信じられてなくて、今にも起き上がってくる、ただ寝ているだけだと心から思っているけれど、理性的、表面のほうでは、現実が迫っていることをひしひしと感じるような、そんな感じを誰もが持っていた。
お母さんが、その子を呼んで、悪い子だという時の声が、幼児を愛くるしく抱きしめるような、愛おしさをこめた甘い声で切なかった。
幾度となく呼んできたその名前、そのあだ名。
そのすべてが本当はこんなにも尊いものだったとは。
親の愛というのを私は初めてわかりはじめた気がする。
お母さんは、昨日は手をつないで寝たといった。
させてくれなかったことを全部したいといった。
その手はどんなだったろう。
どんな気持ちで寝たんだろう。
寝れたのだろうか。
犬たちも、なんとなくわかっているようだった。
頭の近くにきて、ぐるるると喉を鳴らした。
早く起きろ、起きてくれよと言わんばかりに。
本当にみんなが信じられていなかった。
死ぬこととはどういうことなんだろうと考える。
私は、少しだけわかったことがある。
死ぬことは、今の時点では、魂が抜けて、天国に行くということではない。
目のふちのうるおいがなくなって、手の汗が消えて、お腹がならなくて。
それを見て聞いて感じて、ああ、生きてるんだ。と思わせられるものがなくなることだと感じた。
きっと魂とか、その人とかはそこに存在していて、でも生きているという部分がない。
そういうことだと思った。
私自身もまだ実感が湧いていないけれど、その日の夜、その子の顔を思い浮かべたとき、急に一瞬だけ実感が湧いた時があった。
けどそれ以来、どうしても実感が湧かず、この事実を拒絶している。
最近の私は、このことがなくても不安定で、生きているのか死んでいるのか、夢の中にいるような感じだった。
今も、拒絶したい出来事があることでより、夢なんじゃないかと本気で思ってしまう。
自分が見ている悪い夢のせいで、こんなことになってしまった。早くここから抜け出さないと。そのためには普通にしていてはだめだ。いっそ死んでみればこの夢から抜け出せるんじゃないか。
そう本気で思ってしまう時がある。
けれど、その子のお母さんに言われた、親より先に死んではいけないよというお話やこんなにも美しいことたちを経験できなかったその子のことを考えると、死にたいなんて不謹慎すぎるとも思う。生きていたいと思う。
このふたつの強い気持ちが急に入れ替わったり、戻ったりして、自分でもよくわからない。
実感が湧いた状態でその子の体があるうちにもう一度会いたいと思う気持ちと、そんなことをしたら自分を保てないのではないかという気持ちに揺さぶられる。
このいろんな矛盾した気持ちにどう折り合いをつければいいのか。
どうやって今の状況を乗り越えればいいのか、わからない。
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