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イエール大学美術史学科が西洋美術史基礎調査コースを廃止した件について

少し前にこんな記事を見つけて仰天した。

名門イエール大学の美術史学科が西洋美術基礎調査のコースを廃止するという。
理由は既存のコースが圧倒的に白人、ヨーロッパ、異性愛、男性に偏重していることにより、学生が不安を覚えたためらしい。

新設されるコースは
・芸術と政治
・世界の工芸
・シルクロード
・聖地
と、西洋美術に固執せず、より多様性に富んだものになるという。

けれど、私はこのイエール的「進歩」に異を唱えたい。
理由は3つある。

①先行研究の本流を避けてリベラルアーツは学べないから

美術史とは先行研究を掻き集め、それらを理解し、自論でアップデートするのが大前提の学問である。だから、その先行研究を生んだ学問の本流を理解せずして、自論を展開できるはずがない。

これが他学部生向けの一般教養なのであればわからないでもないが、美術史学徒のための入門コースだ。

そこでアカデミズムの本流を、一切無視してどうやって研究をしようというのか?

そもそも、欧米文化の根底にはギリシャ文化とキリスト教文化とがある。
ベースがそこにある以上、基礎課程のヨーロッパ偏重は当然のことであって、そこを毛嫌いするのは、欧米文化の全てを否定するようなものだ。

また、そもそも美術史とはヨーロッパの白人起源の学問なのだから、教科書がヨーロッパ、白人に寄っているのは何ら不思議でない。教科書を作るというのは未開の学問を切り開いた者の特権であり、どんな学問領域であれパイオニアの主義主張に偏重しているのは当然のこと。
それを批判したければ、まずは彼らが作った教科書で学ばなければならない。

おかしいと思うなら異論を唱えればいい。けれど、よく知りもしない歴史をどうやったら批判できるだろう?
知識なき批判は子どもの戯言でしかない。

②西洋美術が異性愛偏重というのは思い込みにすぎないから

そもそも西洋美術って異性愛偏重なんだっけ?
ホモセクシャルの巨匠とか、ごろごろいた印象なんだけど…

そんなことを言うと、マニアックな画家じゃなくてルネサンスからモダンアートの系譜にいる超ビッグネームにそんな人いるのかよ。と言われそうだけど…

いる。

まさかイエール大学がこの作品を教えないことはないだろう。

逞しい裸体を惜しげもなく晒しながら、石を手に持ち巨人ゴリアテを見つめる青年…
ミケランジェロのダビデ像だ。

あまりにこの作品が有名なので、ダビデは青年なのだと思い込んでいる人が多いが、本来神話に登場するダビデは少年である。 

 (ドナテッロのダビデ像)

ミケランジェロは何故だか勝手にダビデを筋骨隆々とした青年として表現してしまった。何故か…
彼が筋肉フェチだったからだ!

彼は若い男の筋肉が好きで好きでたまらなかった。
それはもう神話をねじ曲げ、女性像ですら筋骨隆々とした体つきにするほどのフェチズムだった。 

(システィナ礼拝堂の天井画に描かれたシビュラ)

彼の性癖なくして美しすぎる青年としてのダビデ像という傑作は生まれなかったのである。

他にもダ・ヴィンチからキース・ヘリングまで、美術界の巨匠のホモセクシャル率は一般社会より明らかに高い。

確かに社会が同性愛をタブー視していたため、直接的な表現は異性愛の方が圧倒的に多い。
しかし、タブーの網の目を掻い潜って仄めかされた同性愛表現を見出せないのは、扱う作品が悪いからではなく、鑑賞者の目が鍛えられていないからにすぎない。

③負の歴史から目を背けてはならないから

これまで、ヨーロッパ偏重・白人偏重はこの学問を学ぶためには受け入れざるを得ないし、異性愛偏重は美術の表面的な見方しかできていない証だと述べてきた。

けれども事実として、ヨーロッパの白人入植者たちが未開の地に文明をもたらすという高い志のもと、先住民の文化を破壊しまくった時代がある。
事実として、LGBTがタブー視され刑務所送りになる程の罪であった時代がある。
事実として、女性は男性の所有物と見なされ、絵筆を握れず学問も出来なかった時代がある。

そんな負の歴史を今を生きる私たちと価値観が合わなければ学ばなくていいのだろうか?

「私は憲法9条に守られた平和な日本が大好きなので、ナチスのホロコーストのことは知りたくありません」
なんて言っている人間に本当の平和が分かるのだろうか?

おかしいと思うからこそ、負の歴史から目を背けてはいけない。
自分の主義主張があるからこそ、批判的精神があるからこそ、正面から向き合わなくてはいけない。

おかしいと思うなら異を唱えればいい。
自論をもってアップデートすればいい。

でも、そのためにもまず歴史が積み重ねてきた王道を学べ!

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