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月夜のスキップはピチカートのように(小説)

「もし告白されていたら、付き合ったんですか?」

小さな目眩を覚える。仄暗い迷路から出て、夢から覚めたようだった。長い一日の、長い会社員生活の終わり、ぼんやりとした静けさを破って放たれたその一言の驚き。

「そうねえ」

彼はわたしより少し年上で、微かに猫背で、痩せていて、神経質だった。指示も細かく、礼儀にも厳しかった。ただ、細かく厳しくはあるが、佇まいや言動に柔らかな繊細さがにじみ出ていて、あからさまに敵を作るタイプではなかった。
また、仕事に対して完璧主義ではあったが、女性に対する目線は一般の男性と変わらず、というよりかなり甘く、儚く守ってあげたくなるような女性には目に見えて優しい。「〇〇さんって、どう思う?」「いや、そりゃかわいいと思います」「そうだよね、かわいいよね」。彼と男性スタッフの間ではそんな会話が、よくあったらしい。

らしい、というのは、彼は女性に対してそういうことを絶対に言わないから。でも、何人か彼の「お気に入り」である女性スタッフの名前は聞いたことがあった。そのまま彼は誰にも告白せず、勤続十年と少しして、職場を去った。向上心のある人だった。

それから何年かして、今度はわたしが結婚退職することになった。

小さな専門誌と書籍の出版社。入れ替わりの激しい職場にあってわたしはすっかり古株になっていた。これまで何人編集スタッフが辞めても「経営が苦しいから」の一言でスタッフを雇ってもらえなかったのに、わたしが退職することになってやっと二人、新人さんが入ることになった。二人はどちらも20代前半の女性で、わたしよりも一回り以上年下である。若さが溢れる、というのはこういうことを言うのか、と思うくらい、身体全体から生命力がみなぎっている。

ふと、あの「彼」が彼女たちを見たら、どんな反応を示すだろうかと考えた。きっとクールを装いつつ、隠しきれないデレデレを周りに振りまくに違いない。



歓送迎会の夜。

どんちゃん騒ぎの宴会の後、上司がわたし達(わたしと、彼女たち)を夜景の見える静かなバーに連れて行ってくれた。恥ずかしながら、こんな体験をしたことはほとんどない。すでに30代も後半になり、そのぐらいの場数は踏んでいても良さそうだったのに、当時は朝も夜も分からないくらい必死になって働いていた。仕事が休みの日は、誰とも話さず、ひたすら草花のために土をいじっているか、何かを作っていた。そして趣味が高じると趣味の世界でもお手伝いをするようになり、また馬車馬のように働いて土日が無くなった。

余白を作れば、そこに不安が生まれる気がして。

「【家】を、継がなくては」


わたしの家には家業があり、それをなんとかしなければならなかった。こんな言い方は時代錯誤だとよく分かってはいるけれど、家業を一緒に継いでくれる人に、自分を選んでもらわなければならなかった。わたしは、家を継いでくれる人と結婚する必要があったのだ。

それはどこで何を評価されても影のようにわたしに付きまとった。家業自体が嫌なわけではない。また、家族もわたしのやりたいことをやったらいい、と理解してくれたおかげでわたしは普通の大学に行き、学びたいことを学び、したい仕事をしてきた。それでも高齢の親がふと漏らす「後がない者にとってはねえ…」が、わたしの胸を締め付ける。

当時は目の前のことに集中しすぎていて、遠く先は見えず、深い霧の中にいるようだった。でも、何をしていても、ふっと、頭をよぎるのだ。「帰らなきゃ、あの家に帰らなきゃ」って。「いけないんだ。許され続けるのは」って。そんなふうに。



いつも誰かに、何かを評価されていなければ不安だった。仕事も趣味も全力投球することで、家を継ぐことが難しいわたしが許されるような気がした。もちろん、家業から逃げていたわけではなく、何度か真剣に恋愛をしたこともあるし、お見合いをしたこともある。それでも、うまくはいかなかった。

そのまま体調を崩したりして、30代後半になっていた。婦人科系の病気も見つかり、それは将来の妊娠に不安を残すものだった。年齢的にも難しいし、家業を継ぐ必要があるといえばなおさら、結婚を前提にお付き合いしたい男性は限られる。条件の厳しいわたしが誰かに選んでもらうためには、自分がうんと魅力的になるしかないと、そう考えていた。そうでなければ、わたしなんて、誰からも選んでもらえない気がした。かわいいねと言われることはあったし、「あなたならいつでも結婚できるはずだ」とも言われたけれど、世の中そんなに簡単じゃなかった。

「遊びならね、いいんだよ」


わたしを通り過ぎた何人かの男性を想う。

わたしには相手が欲しい形で与えられる未来はない。与えられる未来がないから、手を差し出せない。相手のため、ではなく、わたしのために。ここで過ちを犯すとわたしは相手に対して責任が取れないから。だけど、それはわたしだけでなく、相手も全く同じなのだった。

「運命」というのはなんて脆く、儚く、危ういのだろう。
無防備だということは、自らを危険に晒すことだ。頭では分かっているのに、わたしはなかなか学習できなかった。これまで犯してきたいくつかの失敗。数は多くないけれど、痛みを知るのには充分すぎる体験だった。わたしはこれ以上、無防備に自分を差し出し、自分も人も傷つけるわけにはいかない。あの時、固く誓ったはずなのに。





そこは上司の行きつけのお店で、バーのマスターとは親しい仲のようだった。

「この子、結婚するんだ。何かいいカクテルを作ってあげてくれないか?」

マスターは穏やかな笑みを浮かべて、頷く。やがて澄み切った青空のような色のカクテルが運ばれてきた。

「サムシングブルーにちなんだカクテルです。おめでとうございます。どうぞお幸せに」。

窓の外では夜景がイルミネーションに彩られている。夜景をバックに見るグラスは、夢のように淡い水色をしていた。
ティファニーブルー色のお酒は甘くてスカッとして、そして儚い。喉に入るとそのまま消えてなくなった。

「これが新婚の味か」と思った。
嬉しさが泉のように、胸の中に湧き出てきて、わたしを満たす。



冒頭の「彼」が在職中、わたしに想いを寄せていたということを知ったのは、その夜景の見えるバーだった。

「あなただよ! 彼が好きだったのは、知らないの?」

「ええ、全然、知りませんでした。だって、他の女の子の名前を聞いてましたし」

「俺さ、休日出勤で仕事してるじゃん。一人で集中したいのにさあ、彼がしょっちゅう来て言うんだよ、『彼女は元気かなあ。大丈夫かなあ』って。毎回だよ、あなたの話」

「そうでしたか、なんか仕事の邪魔しちゃって、すみません…」

若い女子二人がわあ、と沸き立つ。やっぱりかわいいからモテますよねえ、なんてお世辞も出る。わたしはお酒も入り、少しいい気になっていた。彼はもういない。それに、わたしはもう別の人と結婚する。何せミラクルな縁談が成功し、わたしは家業を継ぐために長年勤めた会社を辞めるところなのだ。

わたしは調子づいた。

「そんなの、言ってもらわないと、ぜんっぜん、わかんないですよ!」

その時、新人の一人がこう言った。

「じゃあ、本当に、もし告白されていたら、付き合ったんですか?」




「そうだな…、うーん、そうだな…」




わたしは黙ってしまった。ずいぶん長い間、考え込んでいた。
その沈黙の中に、わたしの卑怯ともいうべき性(さが)の不変的な本質を、見た気がしたのだ。もし気持ちが彼に向いていないとしたら、ただ、それは誰かを惨めにすることで、自分の惨めさを誤魔化そうとしただけなのではないか? 言ってくれなきゃ、と言いながら彼の報われない恋を、白日の下にさらす勇気も、きちんと返事をする覚悟も、その恋を終わらせる自信も、わたしにはないのだった。
彼女の一言は怖かった。自分の卑怯さに向き合わされ、それを見せつけられるような力があった。

わたしはふう、と息を吐いた。わたしの現実を吐き出すかのように。

実はそうやって自分を正当化しようとしていただけなのかもしれない。わたしは、誰からも真剣に相手にされていないことにして、誰とも向き合わず、一人ぼっちで追放されたかのように、思う存分自己憐憫に浸りたいだけなのかもしれなかった。
誰も加害者にはなりたくない。人生において、すすんで悪役になりたい人などいないだろう。


「彼とは、ないかな、申し訳ないけど」





「でもさあ、勝ち組ですよね」

彼女の一人が言う。
そうか、わたしが勝ち組に見えるのか。うまく言い表せないが、勝ち負けでは決してない。ただ、自分の事情に合わせて生きていたら、こうなったというだけだ。
でも、あえて言わなかった。彼女の中ではまだ「結婚=勝ち組」なのだ。

わたしはもう疲れ切った会社員ではない。彼女たちのいう「勝ち組」として穏やかな微笑を浮かべ、優雅にそこにいればよかった。やはり少し傲慢だったかもしれない。
わたしは背筋を伸ばしてカクテルに口をつけた。ショートカクテルはお酒に弱いわたしには十分強く感じた。舌の先で少しずつなめる。甘くてスカッとしたお酒は、相変わらずどれだけ飲み込んでも、喉の途中でそのまま消えてなくなってしまった。

コピー機やファックス、パソコンが並ぶむせかえるような暑さのデスク。同じ机に同じ椅子、延々と同じものの繰り返しでなされるフロアの風景。冬は空気が乾燥し、暖房の熱さでぼうっとなりながら電話に出るかすれ声。窓越しにだんだん深くなる夜の色。いつまでも続く朱入れ原稿に原稿チェック。夜の闇に反抗するようにいつまでも眩しい蛍光灯。

淡い水色越しに、楽しげに話す上司と彼女たちを眺めていたら、さっき後にしたばかりの会社の光景が、わたしの内部に鮮やかに浮かび上がってきた。見慣れた光景は規則正しい幾何学模様のようで、わたしを落ち着かせる。

実際、ほんの少し虚しさも感じていた。もうここにいる上司や新人の彼女たちと、熱い目的で語り合うことはないのだ。短期間で質のいい本作りの工夫とか、データ渡し直前のドタバタ劇とか、会社の愚痴とか。
これから編集スタッフの仲間になり、活躍していくだろう彼女たちと、そこを去るわたし。彼女らとわたしは、全く別々の方向に歩き出そうとしていた。二つの全く異質なものが、不可思議に一緒になってしまった感覚だ。

わたしはこれから、これまでのキャリアをいったん捨てて、曲がりくねった道を手探りで行く。かっこよく言えば冒険の旅に出る。その旅にミステイクはないと思いたいけれど、分からない。あらかじめミステイクが取り外され、安全圏内で行動できたらどんなにいいだろう。でもそれは、会社にいたって同じことだ。彼女たちもまた、全然知らない世界の中で歩き出そうとしている。

その不安定さにおいて、わたし達は共通して自由だったし心許なかった。




実際、勝ち組なんてあるのだろうか。

屈託なく、自然に好意を受け入れられたならば、それでいて、愛されることに謙虚でいられたならば、もう少し何かが変わっていたのだろうか。
人が「信じてくれ」と言った時は、実は「信じるな」ということなのではと疑い、「好きだ」と言われたらそのまま逃げたくなってしまうような、そんな人間だったから、わたしは。人知れず愛に恐れを抱き、その恐れを「傲慢である」と認識していながらもそれを拭い去れず、捨てきれず、しかしあきらめもつけられず、ただあがくことをやめない、そんな人間だったから、わたしは。

確かに、たくさんではないけれどお気に入りの洋服も靴もバッグもあって、お化粧をして髪の毛を巻いて、男性にもそれなりにちやほやされて、美味しいものも食べている。そして何より結婚相手がいる。わたしが女性として欲しいと望んだものは、あらかた手に入っていたのだった。

にもかかわらず、わたしはこれまで言われた何人もの「ごめん、好みじゃないんだ」という言葉を思った。「両親が厳しそうだからモテない」と言ってきた人、「本当は別の女の子がお気に入りだけど、あなたは話をニコニコ聞いてくれるから悪くない」と言ってきた人、わたしだけあからさまに避けてお話をしてもらえなかった飲み会の席があったことを思った。
それはそれでいいと思う。関係は、互いが維持したいと思う姿でなければ続かないのだ。そのぐらいのことで、失うものは何もないはずだ。

でも、そのたびに奥歯を噛み締め、言いたくなった。

「わたし、そんなに物欲しそうな顔をしていますか?」

一人きりの夜、今なら、誰も見ていないから、と思った。でも泣けない。そもそも泣きたいかどうかも分からない。
そうやって見て見ぬふりをして通り過ぎてきたものがたくさんあった。わたしの胸の底は熱くて、冷えている。

時間は巻き戻しができないという事実に、ずいぶん救われてきた。前へ前へと進むだけ。この一瞬もすぐ後に流れ去ってしまう。だからみんな前へ前へと押し出されていく。

過去にあったいろいろなことはすべて夢のようだ。しかし確かにそれは存在したらしい。でももう確かめようがないし、確かめたところで何もできないし、何もしない。




ドアを引いて外に出る。下には石の壁に囲まれた螺旋階段が続いていた。先に出た上司は慣れた様子で、涼しげな表情で階段の下に立っていた。同じ時間を共有して出てきたみんなは、それぞれのことを少し余分に知っている。バーの中は、分厚い扉の外からは見えない。

町の喧騒が外に出たわたし達を覆う。



「それでは、元気でね」

「お幸せにね」



わたし達は月影の下で別れた。
頭の中、グラスで溶けかかる氷の音がカラン、と響いた。



わたしはわたしの道をゆく。人は人の道をゆく。正解か、不正解か。そんな考えから自分を解き放つ時が来たのかもしれない。
何かがあった時、そのまま一緒に進むか、どこかで別れるか、たったそれだけ。その連続で、それぞれの人生は進んでいく。


「何か一つだけが正しく、それ以外は間違っているということは、きっとないから」


彼女たちの今後の活躍と、良くしてくれた上司の幸せを願う。そして、想いを寄せてくれた彼の幸せも。
もちろんわたしも幸せになる。

わたしは月夜の中、ピチカートを奏でるように一人スキップをした。



(了)





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