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あの頃の僕は正義だったのだろうか

中学生時代の話。

僕は小学生の頃からいじめがあまり好きではなかった。かと言って、大きな声で「いじめをやめたほうがいい」と言えるほどの勇気を持っていなかった。

その頃から”いじめ”はただのモブジャスティスの一種にすぎないと思っていた。SNSでも”〜隊”とか付けている人たちを見つけると引いてしまう。そういう人たちは、自分1人だと自信が無いから誰かと群れて自信を付けているにすぎない。身分相応以上の自信を”過信”と呼ぶのであれば、きっとそれだろうと思う。

話を戻して僕の中学時代。

同級生に”いじめられっ子”がいた。その子はSかMかで言えば、どちらかといえばMだったと思う。それが殴っていい理由にはならない筈だったが、周りからいつも酷い扱いを受けていた。僕はそのいじめられっ子とは仲が良くて雑談とかするのも全く嫌じゃなかったし楽しかった。

その頃の僕といえば、学校のヒエラルキーに属していなかったと思う。誰か特定の人といつも一緒にいるわけでもなく、ヒエラルキー上位層のクラスの中心人物みたいな人とも仲が良かったし、下位層のいじめらたり友達が少ないような人たちとも仲が良かった。どちらかというと僕は下位層にカテゴライズされるような人たちと一緒にいるほうが多かった。そして、僕は小学校の高学年〜中学時代はキレるとすぐに手が出てしまうほうだった。今思えばとても恥ずかしいことだったが、その当時の僕は”力が強い奴が正義”だと勘違いしていた。だから、自分が不愉快になるいじりを執拗にしてくる人たちにはキレることがあった。そういう事もあってか僕をいじめるような人は居なかったし、僕もキレたり殴ったりすることは疲れるし痛いと学んでいた。

そして、いじめられっ子も僕の近くにいるといじめらなかった。いつもは友達と群れて誰かをよってたかって嬲るような人たちも、僕がいじめを毛嫌いしていたし”あいつはキレるとヤバい奴”と分かっていたので、いじめられっ子に手を出すことはなかった。

そんなこんなでそのいじめられっ子は自分への暴力がエスカレートしていくと決まって僕の近くに来た。僕は、「お前なんでここに来てるんだよ。」と冗談で頭を小突いたりして、自分もいじめに加担して思いっきり殴ったフリをしてそのまま雑談をしたりしていじめられっ子を庇っていた。自分では気づかない内に、僕はそうやっていじめられっ子をたびたびいじめから守っていたらしい。

そのいじめられっ子は家で事あるごとに僕のそういったエピソードを母親に話していた。そして、僕にいつも感謝してくれていた。

ここまで書いた”いじめられっ子”とのエピソードトークは、すべてその”いじめれっ子の母親”から教えてもらった事だ。どのタイミングでこの話と共にその母親からも感謝されたのか覚えていないけれど、「本当にありがとね。」と言ってもらったことだけは未だに覚えている。

それまでの僕は全く意識していなかったけれど、その話を聞いてから”正義”とはなんだろうと考えたことがあった。僕自身もすぐに手が出るような人間だったので、決して”正しい人間”とは言えなかっただろう。ただ、そうやって無意識に”いじめられっ子”を助けていたのは間違っていたことではなかったと思う。

結局、”正義”なんてものはいつだって形を変えていくものだし、いつ”正義”が”悪”になるかなんて誰にも分からない。自分が”正義”だと思ってやったことが誰かを助ける事もあれば傷つける事もある。だからといって、自分が正しいと思う事をやめろと言うつもりはない。ただ、”正義”というものは何処に宿るものか分からないということだけは心に留めておきたいと思う。しして、少なくとも確実に言えるのは自分が”悪”だと思う事はやらないほうがいいという事だ。

あの頃の僕は果たして”正義”だったのだろうか。

1人を救った事実だけが存在するだけだろう。


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