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小説を書くのに自分には知識や経験もないからって悩んでるヤツは学識もなくて世間知らずの田舎娘が世界文学の名作書いてるから心配せんでえーで

 みなさん小説って書きます? 書かない? 書かないってこともないでしょ〜。この記事を読むときぐらいは「書いてる人」ってことにしておいてくださいな(笑)

 小説を書いてると「あたしって才能あんのかな〜」とか「自分に小説を書く資格なんてあんのかな〜」なんてことを考えることってありません? ない? ないってこともないでしょ〜。まぁ、あるってことにしてくださいな(2回目)

 世の中には「小説家になるには」だの「小説家になるのに必要な素養」だのといったことを検索窓に入力しちゃう人だっているくらいですし。不安になっちゃうんでしょうね。自分が書くものが価値あるものになるのかってこととか、その根拠になりそうな広い知識や深い経験が自分にはあるのかしら?──なんてことをさ。

 ところで、エミリー・ブロンテって小説家がいるんですよ。『嵐が丘』って小説で名を残した女性なんですがね。この人がどんなに立派な人かと思いきや「学識」のない「世間知らずの田舎娘」だなんてことを書かれちゃってるんだな、これが。しかも実の姉からね。

 これ、「あれ?」って思いません? 小説家になるのに必要な素養なんてものをググっちゃう人もいる中で、偉大な文学者・大作家さまの中には学識のない世間知らずの田舎娘だってお人もいるだなんて。「ほんまかい!」ってなりません?笑

 ワイが今回書いた記事ってのが、そんな知識も経験も浅い(らしい)エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を取りあげたものなんですよ。これね↓

 んで、これが記事の要約したやつ。

・文学史的名作小説として知られる『嵐が丘』の作者エミリー・ブロンテ。彼女は姉であるシャーロットから学識もなく、世間知らずな田舎娘と評される人物だった。このことは作品が普遍的だったにもかかわらず、作者は普遍的であることからは程遠い、特殊個性的な人物であったことを物語っている。
・知識も経験も大したものではなかったエミリーは「つねに本性からの衝動、直観の指示にしたがい、狭い体験からつみ重ねた多くの観察によって書いた」。これは小説を書く態度としては主観から客観を認識しようとする〈主観-客観〉の図式ではなく、内在に超越が到来したものを吟味するという〈内在-超越〉の構えがある。
・小説を書こうとするときは書き手自身に内在してくるものに対して誠実であらねばならない。この原則を守ることで、(知識や経験において)豊かではなくても素晴らしい小説は書ける。ただし小説を書くときは作者の自己主張になってはならず、つねに作品が表現しようとしているところを優先しなければならない。

 今回は「批評の神様」なんて言われたりもする小林秀雄だったり、現象学の〈主観-客観〉から〈内在-超越〉への態度変更を参照したり、小説家・磯﨑憲一郎を引いたりなんてことをしておりますわ。どれもそれも「社会経験のない人」が小説を書くことを擁護するために。

 最終的にはエミリーがそうであったみたいに、おのれ自身の貧しさにこそ小説を書くための重大なポテンシャルが埋蔵されているじゃないか!?って話になってますわ。ここでの “貧しさ” は ”豊かさ” って言ってもいいんだけどね。それだとやっぱり才能の有無の話みたいになっちゃうからさ。

 ちなみに哲学界隈から現象学の態度変更を引っ張ってきたのは、小説を書く上での視線の向き変えの話題に繋げたかったからっす。成功しているかはさておき、ね(苦笑)。

 この記事を通して、小説を書くみなさんが小説を書く上で肩の力が抜けることを祈っておりまする。世間知らずなエミリーが『嵐が丘』を書いたみたいに、おのれ自身の貧しさに集中する態度が大切でっせ!

 気になる方は読んでみてね〜

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