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10年以上日記を書いてきた俺が「日記をつけることの魅力」を考える

こんにちは。ザムザ(@dragmagic123 )です。いきなりですが、わたくしは長らく日記を書く習慣を持っていました。2010年から2021年の......最近まで。そう、ザムザの “日記の習慣” は今や失われてしまったことなのです。
これを残念に思っていたわたくしだから、と言いましょうか、このたび『日記をつける』という一冊を読む機会を得ました。詩人である荒川洋治の書いた本です。
今回は自分が日記を書いていた経験を踏まえて、『日記をつける』という本から窺える「日記をつける行為」のおもしろみをご紹介します。

この記事で取りあげている本

荒川洋治『日記をつける』,岩波書店,2010 

日記を書いてきた俺が日記をつけることの魅力を考え始める

じつは日記を書く習慣を続けるのはハードルが高いらしい。日記を書く意義を説く本が書かれたり、そもそもどういうふうに書いたらいいのかというトピックを扱った本があったりして。日記くらい、自由に書けばいーじゃん、なんてことも思いますが、どーなんでしょうね。
10年以上日記を書いていた私の場合はというと、大学ノートの1ページを1日分として書いていました。罫線に合わせる形に縦書きで。なので書くときはノートの罫線がこちらに対して横向きではなく、真っ直ぐ縦向いた状態にして使っていました。ノート自体がアナログなので、書くのも手書き。

そいで、人に自分の日記の習慣のことを話す機会があると、ほとんどの人から「すごいね」と言われました。その “すごいポイント” はというと、どうやら以下の3点にまとめられそうなのです。

  1. 手書きで書いている

  2. 毎日ノート1ページ分書いている

  3. 習慣として続けている

 こうして並べてみると、そもそも〈書く習慣〉がない人が多いのではないかと考えられそうですね。

それじゃあ、ある人に書く習慣があるとして、それでもその人が「日記をつける行為」に踏み出せない場合には、どのように “日記つけることの魅力” を語れるのだろう? ──この点を考えるのに、『日記をつける』という本がヒントをくれそうなのですよな。

〈日記を書く〉のフィロソフィー

ここでは、日記の文章が「自分だけがわかることば」ではいけないと語る詩人を参照しつつ、日記という〈場〉が個人的なものなのか、それとも(不)特定多数に開かれたものなのかを考えてみます。先に結論を言うと、個人的な場といえど他者に開かれている、です。

日記は公開するもの......なのか?

話が逸れるようですが、ネット文化が広まるにつれ、自分のことを世界に発信する人も増えました。そんななかブログ上で、もしくはSNS上でもいいんですが、日記を公開する文化も出てきます。

もともと、日記というものは誰かに読ませるものではなかったはず。よほど著名な人でもない限りは、誰かの日記がそれ以外の誰かに読まれることもありませんでした。

ところがインターネットの登場によってその “常識” に変化があったらしいのです。

たとえばこんなことがありました。ある人に「自分は日記を書いているんです」と人に伝えることがあったんですが、その際、その相手から「日記は公開するもの」という “常識” を聞かされることがあったんです。これには驚かされました。

というのも私は、日記は「自分が自分自身に向けて書く」ものだと思ってたんですよね。だからこそ、「自分が(不)特定多数に向けて書く」ものだという考えが常識だと言うのですから、そりゃあもう驚きでした。
どっちが非常識だとか言うつもりはありません。しかし、ここには「日記をつける行為」の魅力を解くヒントがあるように思うのです。

自分だけがわかる言葉で書くべきではない?

荒川洋治は『日記をつける』のなかでこんなことを言っています。ちょっと読んでみてくださいな。

自分だけがわかることばというものは、あまり意味がないもの、はかないものなのかもしれないと思う。日記は、どんなにことばが少なくても、それを見た人が、何かをいっしょに感じあえるようなところをもつべきなのかもしれない。(p110)

『日記をつける』,p110

ここで言われていること──《自分だけがわかることば=あまり意味がない》って、さっき挙げた「自分が自分自身に向けて書く」よりも、むしろ「自分が(不)特定多数に向けて書く」寄りの思考なんですよね。言い換えると、日記は〈秘密にするもの〉ではなく〈公開するもの〉だという考えに近いんです。

よく考えてみると、ここには納得させられるものがあります。

たとえばですが、こういうことってありませんかね?

ちょっとしたメモ書きをするとするじゃないですか。くしゅくしゅっと書いたような、誰かに読ませるつもりはなくて、自分が読めればいいような、そんな字で書いたメモ。それがなんて書いてあるかは、書いているその瞬間にはわかるわけです。ところが、後になって見返してみたときに、そこになんて書いてあるのかわからなくなる。

メモ書きの話を日記の話に関連させると、自分自身に向けて書くのが “自分が読めればいい” という書き方で、(不)特定多数に向けて書くほうは “後に見返しても読める” 書き方に当たります。ここから窺えるのは、〈今の自分〉と〈後の自分〉は他人同士くらいに考えて然るべき距離感があるという認識でしょう。

日記は自分の秘密を他人に公開する場である

ようするに、わざわざ(不)特定多数の読者を想定するまでもなく、自分が自分であるという事態の内にあってさえ(不)特定多数の他者が存在することが想定できるのですね。この点からすると、五秒後の自分、五分後の自分、五時間後の自分、五日後の自分、五ヶ月後の自分、五年後の自分......みんな他人と呼んでしまっても構わない。

自分が自分自身に向けて書く。このことのうちには、つねにすでに(不)特定多数者の影が潜んでいる。この影に向けて書くことにより、「日記をつける行為」には自分の秘密を書くようでありながらも、同時に、それを他者に向けて公開するようでありもする。

矛盾するようですが、この点から(荒川洋治が言うところの)「日記は、どんなにことばが少なくても、それを見た人が、何かをいっしょに感じあえるようなところをもつべき」という言葉も納得できるでしょう。ここで言われている “それを見た人” とは、〈書く自分〉でありながら〈読む他人〉である、と共に、〈今の自分〉でありながら〈後の自分〉でもあるのです。
つまり、日記を自分の秘密を打ち明けるノートにしようとしても、自分自身に向けて書かれる限り、それは同時に他人に向けて書かれることになるので、秘密は(不)特定多数の他人に(原理的に)公開されてしまうのですね。

いわば、これが日記のフィロソフィー(哲学)。

日記をつけることの魅力

ここでは、荒川洋治という詩人の『日記をつける』を参照しつつ(そしてここまでの記述を踏まえながらも)「日記をつけることの魅力」を考えます。先んじて言えば、日記を書くことで自分を他人のようにまなざし、おもしろがれるようになることが、日記を書くことのメインディッシュ。

自分が他人になるとき 〜日記をつけることの魅力について

自分っきりになってしまうような日記のつけかたはよろしくないと説く荒川洋治ですので、彼の語る “日記をつけることの魅力” には、(当然のように)他者の気配があります。他者の気配というのは、たとえば自分の経験を書く際の自分がそうです。ちょっとこちらの文章をご覧になってくださいませ。

「楽しかった」とあれば、楽しかったのだ。「つらかった」と書けば、つらかったのだ。でも、ひとつの気持ちを文字にするときには、人は自分を別の場所に移しているものだ。そして、自分をよく見せたりする。ほんとうは、こんなことではなく、別のことでもつらかったのに、その別のことをつける勇気はない。義務もない。日記は自分のものだから。だから感情面のできごとについてはいつもほんのちょっとだけ、事実と、ずれたものになっている。だから、ほんとうのことは日記のなかではなく、そこからちょっとだけ離れたところにあるのだ

(p200:太字は引用者)

上に引用したくだりにはこんなことが書いてあります。

自分のことを文字にするとき、人は自分自身を別の場所に移している。それってのは “感情面の出来事とは似て非なるもの” 、としての、 “文字になったもの” がある、ということであり、本当のこととは(少しく)別のところに日記の中の記述がある、ということである。......ふむ。

ここで我が身に立ち返って日記をつけることの魅力を考えてみますと、荒川洋治が〈他者への配慮〉を語る際の《他者》という言葉には思い当たる節があります。というのも、わたし(ザムザ)自身もまた日記を書くことの良さを「自分を他人のように眺められること」だと考えているのですから。

荒川洋治の言葉を踏まえて私の実感を書きつけるなら、日記をつける行為には自分を他人になさしめる力があり、そこにこそ日記のつけることの魅力もあるのではないか。──そんな言いかたができてしまいそうなんですよね。

なぜ自分を他人のように眺めことが日記をつけることの魅力になるのか?

日記を書くことで自分を他人のように眺められる。それは〈自分の他人化〉でもありながら、〈他人の自分化〉でもあります。自分が他人のようになることは他人化であり、他人化した自分を(自分の書いた日記として)日記化することは他人を自分化することでもある。

それじゃあ、なぜ自分を他人のように眺めことが日記をつけることの魅力になるのでしょう? そんな疑問が立てられます。これには幾つも答え方があるでしょうが、ここで特に取り上げたいのは “面白い” という感情や “好奇心” という関心を持てるから、といった効能です。

「面白い・好奇心」などに関連する記述として、『日記をつける』には以下の文章があります。

日記は、自分を笑うことでもある。「うれしい」なんて書いたりして、いいのかな、調子に乗りすぎではないのかななどと思いながら、筆はその「うれしい」ということばに、つながろうとする。そして自分の書いたことばに、にっこりする。「ばかだな」とも思う。自分の批評家がひとり生まれる。その批評家はときどき現れ、消えていく。日記をつけることは、自分のそばに、自分とは少しだけちがう自分がいること感じることなのだ。ときどき、あるいはちょっとだけでも、そう感じることなのだ。その分、世界はひろくなる。一日もひろくなる。新しくなる。

(p200:太字は引用者)

日記をつけることは自分を笑うことであり、自分を自分自身に対する批評家にし、自分のそばに自分とは少しだけ違う自分がいることに気づかせる行為なのだ。そういうふうに上に引用した文章をまとめることができます。

自分を笑う・自分の批評家になる・自分を面白くする

「自分を笑う」という言葉に注目するなら、それは自分が退屈ではなくなり、面白くなるということ。笑いのない人生を味気ないと思うのは自然なことですし、人が豊かな暮らしをしていることを証しするものこそ〈笑い〉である。また、自分を笑うことができることのうちには、《笑われる自分と笑う自分》の分裂があります。これ、結構重要な感覚で、しんどいことがあったときに打ちひしがれているだけなら悲劇ですが、しんどい自分を笑うことができるなら、それは喜劇にすることができるんですよね(筒井康隆のスラップスティック・コメディ小説、トッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』など)。

「批評家」という言葉に注目するなら、それは偉そうに専門用語を使う人のことではなくて、ある対象に興味関心を抱き、それの何がどのように面白いのかを語ろうとする人なのだと理解しましょう。この意味での批評家になれれば、自分が自分であるというそのことがすでに楽しくなってしまう。なにせ興味深い観察対象でありながら、同時にそれをおもしろがる観察者でもあるという二つの視点を持てるのですから。さらにはその二つの視点さえ観察する第三の視点を立てることもできるでしょう。

自分をまなざす視点が増殖すること。あるいは気づきの連鎖のサイクルが始まること。そのことを通して、世界は広くなり、一日も豊かになり、全部が新しくなる。──これが上で引用した荒川洋治の文章の、俺なりの解読です。

以上のごとく語ってみた日記をつけることの魅力は、きっと大袈裟な話です。感化されて日記を書いてみても多くの場合に即効性はないでしょうし、人によってはこの記事で語ったところの実感をなんら得られないかもしれません。ですが、日記を書き始めるその一事において、その入口に立てはする......かもしれない。この、 “かもしれない” の機会に身を乗り出すことがすでに、「自分を面白くすること」になるのだと思います。

おわりに:その日いち日を愛する方法としての日記

ここまで、もしかしたらピンとこない、ややこしい書き方になっていたかもしれません。なるべく、もっと、シンプルに言うことでこの記事を終えることにします。

日記をつける行為は、自分が生きた一日を愛する方法である。

何気ない一日でさえ、幾通りもの言葉を踊らせるいち舞台となる。

色々な想いが、日記の一回分より生まれでる。

日記をつけることの魅力はそういうもの。

つけないでいることで失われるのはそういうもの。

この記事を書いている私(ザムザ)が『日記をつける』という本一冊を通して(メガネを掛けるようにして?)眺められたのはそういったところです。
──そう、日記をつけることの魅力の第一の証拠は、 “この記事で書いてあることが書けるようになる” という一事に現れているのです。

_了

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