【28】常識というフィルターが生み出すもの
怒りや苛立ちなど、いわゆる不愉快な感情について、出てきてしまったものは消せないけれど、出てくる頻度を減らすことはできる、という前回の話からの続きです。
ポイントは、どんな感情も、「インプット・プロセス・アウトプット(知覚行為循環)」という循環の中でアウトプット(③)として出てくるものである、ということ。そこを変えたいなら、インプット(①)と、プロセス(②)を見直せばいい、ということです。
その中でも今回は特に、プロセスの部分を見直すということについてお話します。
常識は「〜すべき」「〜であるべき」思考を生む
インプット・プロセス・アウトプットの流れの中で、プロセスの部分に不具合が起こるのは、私たちが知らないうちにこの部分に何らかのフィルターを置いてしまった時です。
私たちがつい置いてしまうフィルターには大きく3つの種類があるのですが、とりわけ多くの人が持ち込みがちなのが「常識」というフィルターです。
常識とは簡単に言うと「一般的にはこうすることが良いとされている」という知識のこと。
それが知識であるうちはいいのですが、問題になるのは「一般的にはこうすることが良いとされている」が「正しいことだ」となった時。
そうなった時、常識は「〜ねばならない(正しいことをせねばならない)」「〜であるべき(正しくあるべき)」というフィルターになってプロセスに悪影響を及ぼし始めます。
たとえば、あなたが「仕事の打ち上げでは乾杯くらい付き合うべきだ」というフィルターを持っていると、本当は飲みたくない気分の時もお酒を飲むという選択をするようになります。
これ、「今日は飲みたくない気分」というあなたの生命(いのち)のシステムが出してきた感性を無視する行動ですから、そもそもあなたにはストレスになります。
さらに、そこに、選択肢がない、というもう一つのストレスが加わります。
要は「〜ねばならない」「〜べきである」というフィルターを持つことで、「飲んでも飲まなくてもどっちいいけど、飲もう」という自らの選択ではなくて、「常識的にそうすべきだから飲むしかない」という選択肢のない状況に自らを(無自覚に)追い込んでいるんですね。
想像するとわかっていただけると思いますが、選択肢がない=自分で選べないという状況は人間にとってストレスで、まずハッピーな気分にはなれません。
というわけで、「〜ねばならない」「〜であるべき」というフィルターを持っていると、自覚のないストレスにさらされることが増えて、その分、イライラや怒りといった不快な感情、不愉快な状態も出てきやすくなってしまうわけです。
とりわけ、「〜ねばならない」「〜であるべき」というあなたの思い込みを覆す人や状況に遭遇した時にその反応は顕著に出ます。
たとえば、「あ、僕は今日は飲みたい気分じゃないので乾杯は遠慮します」なんて人が出てきた時、ムッとするわけです。
自覚はないとはいえあなたがずっと我慢してストレスを感じていることを、我慢することなく普通にやっている人がいたら、そりゃ、目に付くし、腹も立つわけですね。
逆に言うと、怒りや苛立ちが出た時は、フィルターの存在に気づくチャンスでもあります。
フィルターの存在に気づけたらそれだけでしめたもの。自覚さえできれば、「では自分は本当はどうしたいか?」と自らに問い直すことができるからです。
常識は偏見に過ぎない
良い機会なので、そもそも常識とは何か、ここで改めて整理してみましょう。
アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」という言葉を残しています。
偏見とは「客観的に根拠のない画一的な物の見方」とも言い換えられます。
つまり、事実、真実でない可能性が高いってことです。
実際、世紀の発明や発見の多くはその当時の常識を疑うこと、覆すことから生まれています。
これ、見方を変えると、人間の進化発展には常識はむしろ邪魔であると言えなくもありません。
インプット・プロセス・アウトプットの流れで言うと、偏見があることによって、物事があるがままに処理されなくなるわけですから、事実に即した進化発展ができない状態になるわけですね。
さらに、あなたが持っている常識は、あなたが育った時代、あなたが育った環境の中でしか通用しないということも心しておきたいところ。
日本の常識は世界の非常識なんてことはよくありますし、同じ日本国内でもかつては常識だったことが今はもう常識ではないということも多々あることはみなさん、体感されていると思います。
そのくらい常識とは流動的、変動的なもので、何か一つの常識的な判断が唯一無二の正解であるということはまずありません。
最後に、動作学的に見ると、常識を知っていることと、常識に縛られていることは、似ているようで全く異なります。
たとえば、「約束の時間は守れる自分でありたい」と感じて時間を守るのと、「約束の時間は守らなければならない」と考えて時間を守るのは、前者は自分の価値観を行動に移している状態にありますが、後者は思い込みに縛られているだけで自分の価値観を行動しているとは言えません。
となると、その奥で行われている生命(いのち)のシステムの働きは全く違っちゃうのですね。
理想は、「約束の時間は守れる自分でありたい」というような、周りの人のことも大事にするような価値観が自然と出てくるようになることと思いますが、それも結局は自分に矢印を向けて、自分のインプットとプロセスを丁寧に見直していくしかないんです。これについては説明を始めると長くなってしまうのでまたいつか機会を改めて(関連記事【06】)。
次回はプロセスの過程を阻害するその他のフィルターについて解説します。