見出し画像

【06】利他を目指す、という落とし穴

自分に矢印を向ける=自分を大事にする

自分自身のことでも、誰かとの間で発生していることでも、何であれ、起こっている出来事を変えたかったら、まずは自分に矢印を向けることが大切だと、【04】【05】で解説しました。

「自分に矢印を向ける」というのは、「自分で責任を取る」「自分が変わる」ということに通じるのですが、ここに多くの人が陥る落とし穴があるように感じます。

その落とし穴とは、自分で責任を取るのだと全部を背負い込もうとしたり、自分が変わればいいのだと感情を押し殺したり、やりたいことを我慢したり、といった「自己犠牲」という落とし穴です。

なぜ自己犠牲が落とし穴なのでしょうか?

動作学のレンズを通して見てみましょう。

そもそも生き物の本質という観点でいえば、人間が生きる一番の目的は、生き延びることに他なりません。

そう、あなたが生きる目的は、あなたが生き延びること。

なのに、あなたを犠牲にする思考、行動を選択することは、生きる目的に真っ向から逆らっているようなもの。

結果、苦しくなったり、しんどくなったり、生きる喜びを感じられなくなる、ということが起こってしまうのです。

もちろん、それは目指すところではありません。

では、どうすればいいのでしょう?

動作学的な答えは、まずは自分を満たしましょう、です。

ここで言う「自分を満たす」とは、自分の価値観、感性に従って生きるということ。

繰り返しになりますが、人間は生き物として本質的に利己的で、他人のために自分を犠牲にすることは、生命(いのち)の成り立ちからしてそもそも無理な話。

だから、まずは自分の生命を輝かすこと、つまり自分の価値観、感性を大事にして生きることを意識してほしいのです。

そして、他の誰でもない自分の価値観、感性に従うことこそが、冒頭で述べた「自分に矢印を向ける」の真意でもあるのです。

自分ごとの範囲は拡大できる

「人間が本質的に利己的だというのはわかる。でも、だからこそ、自分を律して利他の心を意識することが大事なのでは?」

「皆が皆、利己を追求したら、社会の秩序はどうなっちゃうの…?」

そんなふうに思った人もいるかもしれません。

これについても、人間という生き物の本質に立ち返ると見えてくることがあります。

そもそも人間は、社会性を身につけることで生き延びてきた生き物です。

単体ではひ弱な人間が、この世界で生き延びることを追求すると、必然的にコミュニティーを形成することになるはずですし、そのコミュニティーの平和と安全が自らの平和と安全に直結するわけですから必然的にコミュニティーの平安を保つことを考えるようになるはずなんですね。

でも、それは自己犠牲が出発点ではなく、生きる延びるという己の目的を追求する延長として自然に発生することだというのが動作学的な視点。

これを簡単に言い直すと、人間は本質的に利己的な存在だけれども、利己の己の部分、つまり自分のことだと思える範囲を広げていくことはできる、ということです。

ここら辺で例をひとつ挙げてみましょう。

「たまには家族でどこかに出かけたい」と妻に言われたとします。

もし自分がヘトヘトで心身共にすり減っているのに「家族サービスをしなければ」と無理をして出かけたらそれは自己犠牲的なので、いずれどこかに歪みが生まれます。

でも、もしあなたの気力、体力などが満たされていれば、休日に家族と遊びに出かけて妻や子どもが楽しんでいる姿を見ることはあなたにとっても喜びに感じられるはずです。

それこそが、家族の幸せがあなたの幸せでもある、つまり家族のこともあなたの自分ごとに含まれているという状態です。

身近でわかりやすいのは家族ですが、職場の部署、住んでいる地域のコミュニティー、市町村、国家、世界と、自分ごとだと感じられる範囲はどんどん広がるはずですし、広がれば広がるほど、あなたが自分の幸せのためにやることは、より多くの人の利にもなる、という構図が生まれます。

イメージはこんな感じ。

スクリーンショット 2022-03-27 7.09.30

歴史の中でも、今現在の社会にも、世界人類に貢献するような活動をしている偉人はたくさんいますが、そういった人たちもおそらく自分ごとだと感じる範囲がそれだけ広いということであって、自分を犠牲にしているわけではないと思うのです。

だから、自分の幸せのためにも、誰かの幸せのためにも、まずは自己犠牲をやめること。

そして、自分を満たして、自分ごとと思える範囲を広げていくという意識を持つこと。

それこそが自分に、そして周囲に、よりよい変化を起こしていく第一歩です。