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消費と生産 𓀡

幼少期は、ほとんどの人が生産する側だったはずだ。

しかしその内発性は、悲しいことに徐々に失われていってしまう。

それはこの指標でも証明されている。

日本の20代の好奇心の度合いは、北欧の老人並みだ。

学校の仕組みの問題だろか?

使わなければ劣化する、それが生命の基本原則。

内発性も、使わなければ劣化する。


消費も生産も中庸が大事 ✔︎

 この世の中、とりわけ資本制の色濃い社会では、毎日のようにラットレースが繰り広げられていて、生産者は生産物を消費させる方法をあらゆる手段を用いて開発している。

 このことからも、消費の方が楽しいというのは自然な反応だという説明ができるが、本当にそれでいいのだろうか。もう既に一部の消費者は、自分の意思を生産者に売り渡してしまっているのかもしれない。けどそれも中庸で、戦略的に一部を任せるような形なら問題ないはずだ。

 中庸を忘れず、思考停止せぬよう戦略的に考えていれば、生産者の思惑に吸い込まれることはないと思う。

生産活動は永続的な快を生み出してくれる ✔︎

 消費から生じる快というのは、とても容易く得られるが、まさにそこに、今回の話題のが潜んでいるのではないか。

 例えば、資本制社会における経済的な消費の場合、それは自身の欲求に応じて、際限なく快の状態を作り出せる。この快の海に溺れてしまうとなかなか抜け出せない。もっと濃度の濃い快が欲しくなる。平均的な快の濃度、その提供速度では物足りなくなってしまうのだ。

 そもそも消費の種類は、生産者の手が加わったものを消費する「人工物の消費」と、それが加わっていない「天然物の消費」というものがある。

 前者の「人工物の消費」というのは、消費されやすいように加工されているため基本的に快の濃度が高く、後者の「天然物」は消費することで生じる快の濃度が、天然物である人間に合わせられているケースが多い。
 
 天然物だと濃度が足らないから、人工的にもっと強いものを作ろう、とする考えではキリがない。強いものを摂取しては耐性がつき…を繰り返してしまうからだ。その世界に天井は無いに等しい。

 しかし天然物の世界には天井がある。

 秩序だっている。全てが平衡を保っている。

 だから「自然で永続的な消費」を楽しむことができるのだ。


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