Nの悲劇〜愛と悲しみのBBQ〜
「近場で、温泉があって、BBQできるところがいい」
そんな私のわがままを叶えられる旅先を妻が見つけてくれたので、小学2年生を目前にした娘との思い出を作るべく、私たちは春休みを使って1泊2日のグランピング旅行に出かけました。
最寄りの駅から電車と新幹線を乗り継いで約1時間。目的の温泉地に到着します。
そこから送迎車に乗り込んで山道を登ること15分。あっという間にホテルに到着です。
チェックインを済ませると、私たちは一つ下のフロアにある裏口から外に出て、グランピングエリアへと続く自然豊かな森林の中を歩いていきました。
時折吹き抜ける初春の風がカサカサと自然のオーケストラを奏で、それに合わせて揺れる日の光が私たちの心を踊らせます。
森林を抜けるとそこはひらけた高台になっていて、BBQをするためのウッドデッキを併設したトレーラーハウスが6台配置されていました。
このうちの一つが今日の寝床です。
トレーラーハウスは全面に木が張り巡らされていて、中に入ってみると優しい木の匂いが充満していました。
壁にかかったブラインドを上げると、そこには大きな窓が現れて、室内がそのまま自然と繋がっているのではないかと錯覚させるほどの景観が広がっていました。
「ああ、癒される」
私は心が洗われていくの感じていました。
美味しい空気と美しい景色、ここでビールを飲みながらBBQができるなんて、これほど素敵なことはありません。
私はすぐにでもビールを飲み始めたい気持ちに駆られていたのですが、BBQの時間まではまだしばらくありました。
そこで私たちはひとまず本館のロビーに併設された足湯カフェに赴き、ウェルカムドリンクを楽しむことにしたのです。
足湯に浸かりながら私は赤ワインと白ワインを一杯ずついただき、妻はコーヒーを、娘はリンゴジュースを堪能しました。
その後は娘のリクエスに応え、プレイルームで卓球をして汗をかき、そのまま温泉に浸かり日頃の疲れを洗い流しました。
ほてった体を携えて再びグランピングエリアに戻ると、いよいよBBQの時間です。
外はあっという間に夕暮れ時を迎え、一秒ごとに夕陽と大地が距離を縮めていきます。
空の色がオレンジ色に染まるこの時間帯は、まさにBBQをするのに最適な時間のように思えました。
私たちが温泉に浸かっている間に係の方が用意をしてくれていたようで、すでに蓋付きのBBQグリルには炭火が起こされ、クーラーボックスの中には食材が入れられていました。
「おお、これぞグランピング。あとはビールを飲みながらBBQをするだけだ」
私はさっそく缶ビールをプシュっと開けて、勢いよく喉の奥に流し込みます。
「あー、うますぎる」
温泉上がりと言うだけでも特別なのに、大自然の中で夕暮れの風を感じながら飲むビールはこの上なく贅沢な味がしました。
私は勢いよく半分ほどビールを飲んでしまうと、クーラーボックスの中身を一つ一つテーブルの上に並べていきます。
すると娘がなにやら興味ありげに近づいてきて、タッパーを指差しながら私に尋ねました。
「パパこれなに」
「生ハムサラダだよ」
「えー、食べたくない」
「これは」
「玉ねぎ、ピーマン、にんじん、かぼちゃ」
「私やさい嫌い」
「じゃあこれは」
「エビ、イカ、あさり、シーフードだね」
「なんかキモいんだけど」
やはり私たち夫婦が懸念していた通り、偏食の娘が食べられそうなものはほとんどありませんでした。
しかし一つだけ、娘が異様に食いついたものがあったのです。
「パパこれは」
「肉巻きおにぎりだよ。フライパンで焼いて食べるんだって」
「えっ、やったー、私これ食べたい。パパほかの食べていいから私これいっぱい食べる」
娘は頭の中が肉巻きおにぎりでいっぱいになってしまったようで、自作の歌まで歌い始めていました。
すると遅れてデッキにやってきた妻が言いました。
「私フライパンで肉巻きおにぎり焼いとくから、パパはあっちで他のもの焼いてきてよ」
「了解」
私がBBQグリルで野菜とシーフードを焼き始めると同時に、妻も備え付けのカセットコンロとスキレットを使って肉巻きおにぎりを焼き始めました。
するとあっという間に陽が沈み、辺り一面は闇に包まれます。
しばらくの間、慣れないBBQグリルでの調理に悪戦苦闘していると、背後から娘の怒り声が聞こえてきました。
「こんなの全然おにぎりじゃないよ」
私は何事かと思い、左手にランタン、右手にトングを持ったまま駆けつけました。
するとそこには見るも無惨な肉巻きおにぎりの姿が…
それはまさに悲劇でした。
おにぎりに巻かれていたはずの肉は全てスキレットにくっつき、ご飯の形は崩れ、まばらにタレが染み付いた箇所は黒ずんでいました。
まさに目を覆いたくなる光景です。
妻は苦し紛れに言いました。
「味は一緒だから大丈夫」
しかし、娘がそれを許しません。
「肉巻きおにぎりが食べたかったのに」
あまりの惨劇に私も声を出せないでいると、娘は「普通のホテルに泊りたかった」と言い放ち、トレーラーハウスの中に閉じこもってしまいました。
確かに娘の気持ちもわからなくはありません。
超インドア派で偏食極まりない7歳の娘には、まだアクシデントをイベントに変えて楽しむほどの心の余裕はないのです。
「しょうがない、ニ人で食べますか」
私たちはまだ寒い3月末の山風にさらされながら、ランタンの明かりを頼りに食材を胃に収めていきました。
冷えた金属製のお皿がたてるカチカチという音が、さらに私たちの心と体を冷たく縮こませます。
私の頭の中では娘が言い放った「普通のホテルに泊まりたかった」という言葉が何度もこだましていました。
すると妻が開き直ったように言いました。
「私たちきっとBBQとか向いてないんだね」
私はそれにはなにも応えずに、新しい缶ビールをプシュっと開けながら言いました。
「まだ肉が残ってるから焼いてくるよ」
私は再び左手でランタンを持ち、右手にトングを持ち肉を焼きはじめました。
今私の心の中では悲しみが怒りに変わり、その怒りが熱源となってメラメラと熱い闘志のようなものが込み上げてきていました。
「この肉だけは絶対に美味しく焼いてやる」
トレーラーハウスの中では娘がブランケットにくるまりながら、昼間に買ったツナマヨおにぎりをムシャムシャと美味しそうに食べています。
「今ここでなんとかしないと我が家には二度とBBQはやって来ない。それだけは料理人として、いや一人の父親としてなんとしてでも阻止しなければならない」
私は一心不乱に肉を焼き続けました。
強火のところと弱火のところを交互に行き来させながら、肉に香ばしさを纏わせつつ肉汁を閉じ込めていきます。
「終わりよければすべてよし」
「肉うまければすべてよし」
これほど集中して肉を焼いたことは、後にも先にもありません。
私はBBQが終わってしまうと、係の人が起こしてくれた焚き火にあたりながら、最後のビールをちびちびと飲んでいました。
16年にわたる料理人人生の中で培った肉を焼く技術のおかげで、なんとか一命を取り留めたBBQという思い出。
私はほっと胸を撫で下ろしながら赤く燃える炎をただ見つめていました。
すると、その炎が身をゆらゆらと揺らしながら私に言いました。
「どうだい、たまにはこんなのも悪くないだろ。だいたいお前さんも含めて人間ってのは、なんでもかんでも思い通りにやろうとし過ぎなんだよ」
私は黙っていました。
「いい日もあれば悪い日もある。ただそれだけなのにムキになっちゃってさ」
私はやはり黙ったままビールを飲み続けていました。
「俺だって一緒さ。風が強く吹けばどこかに燃え移るし、風が吹かなければそのまま消えちまう。そんなもんさ」
私はビールをぐいっと飲み干すと焚き火から目を離し、首をぐるりと回してトレーラーハウスの中を覗き込みました。
するとそこには楽しそうに遊ぶ妻と娘の姿がありました。
私は焚き火に「ありがとう、暖かったよ」と伝え、家族が待つ場所へと戻っていくのでした。
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