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サヨナラから始まる in酒 my life

お気に入りのグラスで飲むお酒は格別です。

素材の良し悪しに関わらず、もちろん値段もブランドも関係ありません。自分が気に入っているのかどうか、それだけです。
飽きのこないデザインがよいですね。結局ほとんど毎日のように使うことになるのですから。シンプルで、使いやすくて、できれば丈夫なモノをオススメします。形あるものはいつかは壊れてしまうものですから。


その日の朝はいつものように朝食を食べ終えて、私は洗い物をしていました。前日の夜寝る前に使った、ちょっとしたコップやお皿なども一緒に洗います。そこには、昨晩お酒を愉しむのに使った、私のお気に入りのグラスも含まれていました。
その日は久しぶりに晴れ間がのぞき、気持ちのよい朝だったので、私は調子っぱずれのハナウタを歌いながら洗い物をしていました。

私のお気に入りのグラスに小さい傷がついていることは、しばらく前から気付いていたのですが、まぁこのくらいの傷なら大丈夫だろうと思い、普段どおりに使っていました。
薄くて繊細な見た目とは裏腹に、意外なほど丈夫なそのグラスは、今までにも何度か手を滑らせて倒してしまったり、他の食器にぶつけてしまったりしていたのですが、特にヒビがはいったり、かけたりするようなことはありませんでした。

しかし、その日の洗い物の最中に、私の不注意によって、そのグラスは逝ってしまいました。
逝ってしまったと言っても、完全に粉々に割れてしまった訳ではありません。
スポンジで洗って、泡を流し、水切り場におこうとしたところで、距離感を誤って、コツっと接触事故を起こしてしまったのです。

衝撃そのものは大したものではなかったのですが、見て見ぬ振りをしていたあの小さい傷口から、一気にグラス全体にヒビが入ってしまったのです。かろうじて原型を留めてはいるものの、指一本でも触れたなら、すぐにでも粉々に割れてしまいそうな状態です。
その姿はまるで、北斗の拳に出てくる、秘孔を突かれたジードのようでした。

「グラスはもう死んでいる」

頭ではわかっているのですが、どうしても私にはその言葉をうけいれることができません。

走馬灯のように、グラスとの思い出が私の頭の中を駆け巡ります。

子供が産まれた日には一緒に喜びを分かち合いました。妻と喧嘩した日には、黙って愚痴を聞いてくれました。仕事がうまくいかない時には、やけ酒に付き合わせたこともあります。二日酔いで顔もみたくない時もあったけれど、次の日にはやっぱり、このグラスに頼ってしまう私の姿が、そこにははっきりと映し出されていました。

ラジオからは、ハナレグミの優しい歌声が聞こえてきます。

「サヨナラから始まることが、たくさんあるんだよ」と。


私の飲酒ライフを長年にわたり、支え続けてくれていたお気に入りのグラスは、今まさにこの世を去ろうとしています。私はせめてその姿形を崩さないように、指先に全神経を集中させて、優しくそっと持ち上げて、牛乳パックに寝かせました。そして、静かに封を閉じ、油性マジックで、涙に濡れても消えないように、できるだけ丁寧に扱ってもらえるように、大きな字で、「われもの」とだけ書きこみました。

いつも私のそばにいてくれて、素敵な夢を見させてくれてありがとう。たまに悪夢もあったけれど、それは全部、欲をかいた私のせいだから。そろそろお別れの時間のようですね。

ありがとう、そして、さようなら。


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