ビル・エヴァンスが流れる街
コンクリートの階段を上がっていくと共に、軽やかに弾け、踊るように奏でるピアノが耳に通っていく。私も心を躍らせ、目の前に広がるオレンジな空気とライトブルーな空に向かって、足を跳ね上げる。
そこは何も変哲もない普通の住宅街。けれど、この街を包む、どこかのピアノが奏でるビル・エヴァンスが、特別な色を与えてくれている。この色鮮やかなこの街の空気を公園のベンチでしばらく楽しむのだ。友人と共に、「waltz for debby」を聴きながら酒を嗜むのだ。
これが、私の唯一やり残したことだ。
まだ一度も行ったことのない、そのビルエヴァンスが流れる街に行くこと。
その叶えられそうな夢も叶えぬまま、私は生涯を終えることになる。
私は30歳という節目の年にして、体を壊し、知らぬうちに自分に死期が迫っていることを知った。私の父も、ちょうど今の私と同じくらいに病に倒れ、死んだ。母も私が成人した頃に、事故で帰らぬ人となった。
短命である運命という遺伝なのだろう。だから、私自身の死も受け入れることができた。それに、私は幼い時からの夢だった小説家として生計を立てていること、妻や子供にも恵まれ、30歳という随分早い歳ではあるが、自分の人生に満足していた。
欲を言えば、もっと小説を書きたかったが、それは来世の楽しみとして諦めた。
今は、筆を取る事もできないほど体も弱り切り、唯一の楽しみは窓を眺め、走馬灯のように近い妄想に耽る事だった。
そんな今より、もう少し体に生気を宿していた頃、私の作家仲間で親友の「坂間」と言う男が私の見舞いに来た。
この男、見舞いに来る前に酒を呑み、出来上がった状態でやってくるほどの酒好き。私もこの男と酒を交わし、何度も乱痴気騒ぎをした仲だ。
その日も、坂間は頬を赤め、肉と油の匂いを漂わせながら私と共に窓の外を見ていた。
「窓の外を眺めていると、人の生活を想像してしまうな。」
坂間は、そんなくどく、吐き気を催すような匂いとは裏腹に病人のようなことを口にした。
「どうした。」
窓から私の方に顔を移した坂間は、私よりも生気がないようにも見えた。
「また、呑みたいな・・・。」
私はその言葉に対して、「ああ。」と、返事することが中々できずに、坂間の後ろに広がる街を眺めた。
側から見れば、寂れた街だ。でも、坂間の言う通り、私はこの光景に人々の生活が垣間見れてしまい、どこか目を覆いたくなる気持ちになる。
坂間は何か思い出して、勢いよく顔をあげ、生気を駆け足で取り戻した。
「いい場所があるんだよ。」
「どこだい。」
「この病院の近くにある住宅街の公園。この病院の通りを登って、階段を上がった先にあるんだ。」
公園というところで少し引っかかったが、よくよく考えれば、坂間は基本的には場所を選ばず、公園だろうが、河川敷だろうが、自分が思ういい店、スポットを見つけると、酒を呑み出す男だ。というのを忘れていた。
「公園かあ。」
「ただの公園じゃない。その街のどこかのピアノからビル・エヴァンスが流れてくるんだよ。」
「ビル・エヴァンスか・・・。」
「そう。お前、好きだったろ。」
私はあまり音楽には興味なく、流行りの音楽が何なのかさえ、把握していない男だった。が、そんな私でも、好きな曲くらいはあった。
それが、ビル・エヴァンスだった。
子供の頃、亡くなる少し前の父が聞いていたレコードが、ビルエヴァンスの「waltz for debby」。たまたま、それを聞いたのがきっかけで、私は執筆中の休憩時間や、バーなんかで音楽をかけられると、必ず、この曲を流すようにしている。
ビル・エヴァンスを聴きながら、晴れた公園で酒を嗜む。
なんて、幸せな光景なのだろう。
本当のところを言えば、また家族と一家団欒だの、仕事に精を入れ取り組むだの、そういうことを願うはずなのに、私はその話を聞いた時、ずっと心の底から、それを望んでいた。
しかし、運命というものはやはり断ち切れない。
まるで、階段を降り、より暗闇の方に遠ざかっていくように、私の体は病が蝕んでいった。
今の私なんて、酒を飲むなんておろか、立ち上がることさえ困難な状況だ。
しかし、こればっかりは来世に持ち越せそうにない。窓の外を眺め、私は妄想を繰り広げながら、そう思った。さまざまな小説は書けようが、私が想像するこの世界は今しか見れないような気がした。
その話から数日が経った、今日も私の家族がいる中で、坂間はいた。珍しく酒の匂いは漂わせていなかった。妻や息子が私を悲しみの清流のような目で眺める中、私は坂間に言葉をかけた。
「あの場所には、まだ・・・流れているかい?。」
「え?。」
「ほら、あれ・・・公園の・・・。」
「ああ・・・。」
坂間は、しばらく俯いた後に私に向けて返事をした。
「ああ、流れている。」
私は、何も言わずにまた窓に目を向けた。
あの場所にはまだ、ビル・エヴァンスが流れているんだ。ならよかった。持ち越せないなら、せめて、私の脳の中だけでもあの街の公園で、ビル・エヴァンスを楽しむとしよう。
子供の頃に聞いた、父の「waltz for debby」のレコードのように、綺麗で、ダンスしているように楽しげに音符たちが跳ね、音でこの街に色づけている。
私の中の、このビル・エヴァンスの流れる街は、永遠に温かく、美しい。
今見ている窓の外も、あの寂れた風景は今は忘れ、絵の具のパレットのように澄んだライトブルーに、向日葵が照らすようなオレンジな空気、今にも飛び出していけそうな世界を前に、私はゆっくりと瞳を閉じた。
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