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【短編】 聖夜に祝祭を、すべての祝祭を #パルプアドベントカレンダー2020

 2021年12月のクリスマスは、盛況を極めた。

 急がれた特効薬の開発の最中、ヤケを起こした科学者のひとりが複数のシャーレを壁に投げつけて破壊したところ、奇跡が起きた。
 いい感じに混合された薬品がうまい具合に作用し、副作用のない薬が12月半ばに完成したのである。

 津波のごとく嵐のごとく、その薬は世界中に届けられ、人類を苦しめ恐怖に陥れた疫病は12月20日前後をもって、完全に収束した。 

 かくして、世界は平和と安定を取り戻した。

 それゆえ、2021年12月のクリスマスは、盛況を極めた。
 いや、極めたどころではなかった。
 というか、クリスマスは、クリスマスだけではなかった。

 ずっと自粛、中止、延期、開催となってもマスク着用必須であった各種行事やイベントが、この際だから一挙にやってしまおうとばかりにクリスマスのその日、あらかたぶちこまれる流れとなったのである。

 人類は長期の我慢を経てきた。その我慢の鎖が、ようやく断ち切られた。

 歓喜、感涙、発散──限界ぎりぎりまで押し込められていたがゆえの「ハレ」の狂騒たるや、すさまじいものであった。
 それはここ、日本も例外ではなかった。





 クリスマスイブの夜11時、渋谷駅前とスクランブル交差点は群衆であふれ返っていた。
 すさまじい人出である。
≪戸地寛二 時空研究所≫の主任研究員・時任はその混雑に辟易しながら駅を出た。
 収束後初の年中行事で盛り上がるとは思っていたが、これほどまでとは。
 しばらく歩いていると、すれちがいざま、若者とぶつかった。

 彼は若者の姿をまじまじと見てしまった。
 相手が世にも珍妙な格好をしていたからである。

 頭には赤い本体の先に白いボンボンのついた帽子をかぶっている。クリスマスで馴染み深いあの帽子だ。
 シャツには大きく「万歳! 東京五輪」と墨痕あざやかに書いてあり、モスグリーンと黒の市松模様の上着を羽織っていた。流行った例のマンガだな、と時任は思う。
 ズボンはと言えば、これが履いていない。12月下旬の夜だと言うのに海パンにビーチサンダルで、なんと浮き輪までつけている。 
 こんな場所にこんな格好で、と時任が顔を思わず顔をしかめる。
 と、その表情に気づいた若者がバン、と彼の肩を叩いた。

「いいじゃないッスかぁ! 俺ら取り戻すんッスよ! 春と夏と秋を!」

 若者の首には小さなこいのぼりがマフラーのように巻かれ、マスクのない顔にはどういうつもりなのか文字が書いてある。
 右頬に「卒業おめでとう」、左頬に「入学おめでとう」。

 時任はつきあいきれない、とばかりに首を小さく横に振り、無言で若者の脇を抜けた。

 おかしな姿形をしている人間はこの若者だけではなかった。彼がこの場にいる人々の、典型的な例であっただけである。
 水着、アスリートの格好、学生服、アニメや漫画のコスプレ、ゾンビや幽霊のようなおぞましげな仮装、それに五月五日にちなんだらしい鎧兜姿や、普通の服装だが籠に入れた桜の花びらを撒く人、三月三日を思わせる貴族のような和服、さらにそれらがぐちゃぐちゃに混合した服装──
 そんな格好の老若男女が、さながら満員電車のように渋谷駅前周辺をみっしりと占領し、騒いでいた。

 スクランブル交差点に集ったこの人々はごく一部の通行人を除き、「春と夏と秋を取り戻」そうとしていた。
 ゆったりと満足にできなかった「入学式」「卒業式」「端午の節句」「海水浴」「五輪」「ハロウィン」などなどを、クリスマスイブの深夜でありクリスマスの未明であるこの時間に、いっぺんにやってしまう腹づもりだった。
 さらにその上、クリスマスそのものまで楽しむ算段をしていたのである。

「ハッピーハロウィーン!」
「最高の夏にしようなー!」
「来年はオリンピックだ!」
「ハタチ成人おめでとう!」
「ハッピークリスマース!」
「タンゴノ! セックー!」

 そこかしこから自粛に追い込まれた年中行事を祝う叫び声が飛び、別の声がそれに応える。「ハッピーバースデー」を歌う声も混ざる。
 信号も車両の通行も機能していない。これが海外ならば、暴動か革命の前兆の光景である。


 狂奔だ。混沌そのものだ。
 時任は縫うようにして進みながら思う。幸せそうなのは結構だが、こういうのは苦手だ。
 こんな時間と場所に私を呼び出して、戸地所長は何を考えているのだろう?


「時任くん、ここだ」
≪戸地寛二 時空研究所≫の戸地所長は、アルタビジョンの下にいた。
 人でごった返す渋谷駅前と交差点周辺であったが、点のようにぽこぽことこのような「空白地帯」がいくつかできている。自然と生じた休憩所のようなものであろう。


「いや、大変な人手ですね」
「そうだな。長期の我慢の反動が、今ここで爆発しているのだ」
 2人は歓声飛び交う渋谷を眺めつつ言葉を交わす。ビジョン下の壁が騒音を薄めてくれるおかげか、声を張り上げなくても会話ができた。
「ここにいる彼ら彼女らは誰に呼ばれたわけでもない。テレビが煽ったのでもない」
「では、ネットで盛り上がったとか?」
 時任はスマホを取り出して、SNSを見ようとした。
「いや違う。さっき私も確認した。これを呼びかける書き込みはどこを探しても見当たらなかったよ」
 時任はざっとSNSを見る。この大騒ぎ自体は話題になっているが、確かに、呼びかけた者はいないようだった。
「えぇ、そのようです。呼びかけ人やタグは、見当たりませんね」 
「そうだろう。つまりこれは、自然発生的に集合したものなのだ。いわば偶然の産物と言える」


 肩車された水着姿の女性が上を脱ぎ、裸になって叫んでいるのが見えた。
 時任はおやおや、と眉を上げて隣の所長の顔を見たが、彼はまったく浮かない表情だった。


「──時任くん、『時間』を取り出すか、切り出すことができるかね?」
 戸地所長は出し抜けに聞いた。 
「取り出せません。時計も『一日』も、我々が勝手にそのように区切っているだけです」
 初歩の質問だ、どういうつもりだろうと時任はいぶかしんだ。
「そうだ。『時間』とは畢竟、生物の主観に過ぎないのだ。我々にできるのはモノサシを作って当てはめることだけだ。これが時間である、と取り出せぬのであれば、そう言う他ないだろう」
 これも初歩の初歩だ。時空学の入り口を、なぜ今さらここで語るのか。

 所長は喧騒を指さした。
「耐えて耐えて、溜まりに溜まった行事、イベント……すなわち主観としての『時間』が、ここで大規模に解消されている」
 時任は「ええ」と頷く。彼の言いたいことはわかった。

 ここで行われているのはいわば「時間の大々的な消費」である。 
 通常人間は、一日や一週間、四季のうつろいなどとは別に、定期的な行事やイベントなどで「時期」を知る。 
 日本人であれば正月、節分、雛祭り、入学・卒業・異動に転勤、ゴールデンウィーク、夏祭り…… 

「今それらを解消しきって、追いついて終わるならよいのだ。だかね、時任くん」
 所長は渋面を作って、時任へと向き合う。 
「私が危惧しているのは、その“先”が起きることなのだ。それが心配で、私はここへ来た。君にも見守ってもらいたかった」
「先、と言いますと?」
 時任の理解が追いつかない。所長はたまにこのようなおかしなことを言いはじめる。

「もしもだ、この時間の解消に加速がついて、止まらなくなったらどうなる?」
「加速がつく?」
 時任の理解の範疇を完全に越えた。
 この人の想像するものが掴めない。あるいは妄想と呼ぶべきかもしれない。
 その怪訝な表情を察してか、戸地所長は身ぶり手ぶりをつけながら、ゆっくりと説明しはじめた。 

 
「私が不安に思っているのは、蓄積してきた主観としての時間が、この一日で消費されるにとどまらず、『行事の先取り』が行われることなのだ。
 行事の先取りが意識に上り、それが行動に移されることで必然的に発生するのは──時間の先取りの感覚だ。“時間が早送りにされる”のだ。
 時空学の初歩では確かに、我々は時間を客観的に取り出すことはできない、と教わる。
 だがこれと、『我々が時空の中に存在している』ことは全く矛盾しないだろう? 単に事実として。

 私たちは時空の一部を構成しているのだ。
  
 ──水を想像してみたまえ。コップ一杯の常温の水だ。そこに少量、熱湯を注入する。水全体は一瞬温度が少し上がるが、すぐ常温に戻る。これが普通だ。
 だがもしもだ、コップの中の一部の水がいきなり熱を持ち、さらに100度に達したらどうなる。
 コップの中の水が連鎖的に100度に近づき、あるいは100度となり、コップが粉々に割れることになりはしないか」
「それは、化学としてありえないでしょう。所長は何をおっしゃりたいんです」
 時任は腕を組んだ。理解はできないが、どうしてか胸騒ぎがする。 
「化学ではありえずとも、時空学ではありえるかもしれんのだ。つまりそれがこれだよ、この状況だ」 
 所長は再び騒乱に指を向ける。
 先ほどより騒ぎが大きさを増している気がする──時任の心の中に影がさした。
「世界が水を満たしたコップであり、ここがその『100度になる』部分のひとつだとしよう。
 人類は時空の一部を構成している。そのさらに一部が、時間を先取りするのだ。時間を早送りにする感覚をおぼえるのだ。
 その感覚がこの規模、この人数、この狂乱の中で発生したと考えてみたまえ。それは相当な熱と力を持ち、もしかすると、時空そのものを──」
 

「あーっ! もう面倒だなァ! ここまできたらヨォーッ! もう年越しもやっちまおうぜぇー!!」


 スクランブル交差点から声が飛んできた。
 見れば交差点のど真ん中にワンボックスカーが停まり、その屋根に青年が幾人か上っている。
 オオーッ、と人の波から歓声が巻き起こった。ハロウィンやクリスマスを祝う台詞がかき消される。否、祝っていた人々も同じ喜びの声を上げているのだ。


 車の上の青年たちは手拍子しながら、大音声で歌いはじめた。


「もーう! いーくつ! ねーるーとー! おーしょうがつー!!」 
 

 ワンボックスカーを中心に、歌声が渦のように広がっていく。様々な格好の老いも若きも男も女も、ここにいるほぼ全ての人間たちが合唱をはじめた。


 正月の歌が終わった直後だった。余興は終わったと思いきや、興奮さめやらぬ群衆のそこかしこから「あけましておめでとうー!」と絶叫が響いた。
「おーう! あけましておめでとうー!」
 青年たちがつられるように言う。
「あけましておめでとうー!!」 
「謹賀新年だなー!!」
「いい年にしようぜ!!」
「今年もよろしくな!!」
 冬の風が吹く渋谷だというのに若者たちはびっしょり汗をかいている。
 よく見れば駅前で時任にぶつかった青年が車上にいた。彼はいま上着を脱ぎ捨て、五輪のシャツも脱ぎ、手をばんばん叩いてはしゃいでいる。
 だがその顔に先ほどの喜びはなかった。得体の知れぬものにとり憑かれたような表情──。


「節分やろうよぉー! 節分!」
 時任と戸地所長の前、群衆の一番外側にいた女性が他人に揉まれながら狂ったように大声を出す。 


「──いかん、これはまずいかもしれん」
 戸地所長は動き出した。
「時任くん、ここを離れよう……ここは危険かもしれない!」
「どうしてです!? 何が起きるんです所長!」
 騒ぎは沸点に達し、もはや怒鳴り合わねば相手の声が聞こえない。
「彼らが臨界点を越えようとしているのだ! 通常の時間と空間の臨界点を!」

 時任はそう言われて、群衆に目をやった。
 おかしい。
 はしゃぎ、飛び上がり、腕を振る人間たちのその動きが、先ほどより早くなっている気がする── 

 その直後だった。
 時任は、空気の濃度がぐっと変わるのがわかった。
 腕を少し動かしてみた。空気が淀み、濃さを増し、一種の重みを持ちはじめている。水の中にいるような感覚だ。

 なんだこれは。
 重力が増したような、
 いや、時空が、おかしくなっているような。

「時任くん、わかるね?」
 戸地所長も腕や指を動かしている。その動きもどこか鈍い。
「時空が歪んでいる! あの狂乱の輪の中が速度を増し! すぐ外側は反発現象を起こして、時空に『遅延』と『重感覚』が発生しているのだ!」 
 所長は逃げるぞ! と叫んで走り出した。時任も続く。

「鬼はー、そとォ!! 福はー、うちィ!!」というかけ声が地面を震わせる。その輪に入らないようにしつつアルタビジョンの下を出ると、なんと群衆は駅前や交差点をはみ出て、各方角に散る道へと伸びている。

「いつの間にここまで! 時任くん走るぞ! この人の波が切れるずっと先まで走らねばならん!!」


 異常な空間が発生していた。
 文字通りに空気が重い。時任の足が上がらず、息が詰まる。ひきずるように走らねばならなかった。
 人の波の端を通り、横断歩道を青白の書店の看板の方へ渡る。渋谷センター街の方にも熱狂は広がっていたが、ギリギリ抜けられそうだった。

 時任はいっそのこと衆人の内側に入って駆けた方が、と一瞬思って、ゾッとしてやめた。
 節分を終えて雛祭りを歌っている人間たちの口の動きが、普段の1.3倍ほどの速度になっているのだ。
 尋常の様子ではない。あそこに入り込んだらもう抜け出せないだろうと直感された。

 時任はスマホを取り出して動画を撮影しはじめた。戸地所長が「それどころじゃないぞ!」と叱ってきたが、目の前の情景に気が狂いそうだったのだ。
 スマホで撮っているだけで、自分は当事者ではない、巻き込まれない、と感じることができるのだった。
 遠くでは件のワンボックスカーの脇にまた別の車が停まり、それぞれの車上で男と女がお内裏様とお雛様の如く座っている。早口の「フータリナランデスマシガオー」の合唱が渋谷のビルにこだまする。

 センター街通りに入ってしばらく逃げると、若い警察官が所在なげに立っていた。
 この異常事態に何を、と時任はカッとなり、その若い警官に詰め寄った。怒鳴っても仕方ないとはわかっていたが、心の持っていき所がなかった。
「あなたね! あの騒ぎをどうにかしようと思わないんですか!?」

 警察官は返事をした。
 時任はのけぞった。
 彼の唇が信じがたいほどに早く動いたため、どう答えているのか聞き取れなかったのである。
「時任くん!」少し戻ってきた戸地所長が腕を掴む。首を横に振った。この青年はもう向こう側の人間なのだ、という意味だった。

 遠く背後で早送りの卒業歌「仰げば尊し」が終わったかと思えば間髪入れずに「こいのぼり」が歌われる。行事の先取りがどんどん加速していっているのがわかり、それにつれて逃げ出そうとする足も重くなっていく。

 加速する歌に引き寄せられるように、甘美な表情を浮かべた多数の人間がドン・キホーテやBunkamuraの方向からもゾロゾロとスクランブル交差点の方角へと吸い寄せられていった。
 涎を垂らし涙をにじませている者すらいた。杖をつく老人、家族連れ、外国人観光客もいる。疫病からの開放を祝う祭りは、催眠術の如き効果まであるらしかった。今やその大きな流れに逆らっているのは、戸地所長と時任だけになっていた。

「時任くん……! 時任くんあれが聞こえるか……?」所長があえぎながら聞く。
「聞こえますっ……! いえ、もう……わからなくなりました……!」

 渋谷駅前の大合唱はもはや、どの行事のどの曲を歌っているのかわからないほどに加速していた。 


 ジング モウイ ダイリ コドモタチ


 という歌詞が時任の耳に届いた。来年と再来年のクリスマスと正月と雛祭りと端午の節句がほぼ同時に到来しているのだ。いや3年後と4年後か? それとももっと先か?
 寒気が走るのを感じて、ちらりと後方を見やった。

 彼は驚愕した。

 10メートルほど後ろではしゃぐ無数の人間たち、その輪郭があまりの加速によってブレて、ひとつの個体として認識できないほどになっていた。かろうじてほとんど動いていない足によって、それが人間であるとわかるのだった。
 そして遠く輝くネオンや看板も、今や常時点いているかの如く高速で点灯している。
 かなり離れているのに、ここの人間に残像が出るほどに速さが増している。
 ということは、あのワンボックスカーの周辺はどれほどになっているのか。
 
 時任の脳裏におそろしい想像が立ち上がった。

 あそこにいた二十代半ばの青年たち。
 彼らが十数秒のうちに節もわからぬほどの「歌」を歌う。
 人体が耐えられる限界の速度で擬似的年中行事を何十回何百回と執り行っていく。
 その動きの中で彼らは凄まじい勢いで老化していく。
 そして死ぬ。
 十秒としないうちに死体が腐り骨となりその骨も風化し粉となって消える。
 そんな光景だった。

「いかん! 時任くん急げ!」先を行く所長が振り向きながら叫んだ。
「ついに限界が来た! 巻き込まれるな!」

 限界、の意味がとれないままほとんど動かない足を前に出した瞬間だった。

 後ろでボッ、と轟音がとどろいた。
 物体が一瞬で燃え上がるような、どこかに吸い込まれるような、そんな音だった。

 その轟音は、単発ではなかった。
 ボッ、ボッ、ボッボッボッボッ。

 勢いをつけて迫ってくる。
 時任は歩道の隆起に足をとられて転んだ。
 膝を打ちつけた痛みに思わず足元と、そして背後を見た。

 信じられない光景があった。

 渋谷駅前を中心に、真っ白い半球がボッボッと音を立ててゆっくりと広がっていく。
 半球の中には人体のようなものが無数に浮いており、高速で蠢いている。
 中からは「リスマス」「アケマシ」「ソツギョウオ」「ッピーハロ」「ンジョウビ」「ハタチオメ」「ュウガクオメ」と断片的に細かく聞こえてくる。

 アハハハハハハ アハハハハハハ
 オメデトウー オメデトウー
 アハハハハハハ ハハハハハハハ
 オメデトウー オメデトウー

 白い半球は一体の生物の鳴き声のように、渋谷中に響くほどの大きさでそれらの言葉を撒き散らしていた。

 この世の終わりだ。
 転んだまま腰を抜かした時任はそう思った。


「時任! しっかりしろ!」
 その怒声に我に返った。
 前方で戸地所長が右手を出している。
「手を伸ばせ! 掴め!」
 所長の手を掴むと渾身の力で引っ張られた。左の靴が脱げる感触がしてすぐそばで耳をつんざくような「ボッ」がしたかと思うと──


 静寂が訪れた。

 
 時任はおそるおそる、自分たちが走ってきたセンター街の通りを振り返った。

 そこには、何もなかった。

 人間はおらず、建物もなかった。
 アスファルトも歩道もない。
 茶色い土さえ露出していない。
 塗りつぶしたように白い地面が、ずっと遠くまで広がっていた。
 そのはるか彼方から突如として、見慣れた渋谷のビル街が復活している。  

 時任は足元に目を向けた。
 脱げた左の靴が、1メートル後方に落ちている。
 それはちょうど、アスファルトと「白い地面」の境界にあった。 
 白い地面の上にはみ出た靴の先は、すっぱり切られたように消え失せていた。

 自分たちより前方に建っているビルから、何事かとぞろぞろ人間が出てきて、白い虚となった空間を呆然と眺めている。

 戸地と時任は2人ともに、ゆっくりと立ち上がった。
 冷や汗と脂汗にまみれた体に、12月の風が冷たい。
「所長、これは、」ようやく口が動いた。「これは、何が起きたのですか」
「これはあくまで私の想像でしかないが──彼らは時空の極限に達したのだ」
「時空の、極限?」
「そうだ。つまりこの宇宙の終わりだ。いわば虚無だよ。空間も時間も、なにもない地点だ」
 戸地はボールペンを出して、半分消失した時任の靴を「白い地面」の側に押し出した。
 半分の靴は消えないまま、白地の上に転がった。
「よかった。反応は終わっているようだな」
「反応、とは……?」
「さっき言っただろう。さっきの時空の加速は、『コップの中の一部の水がいきなり熱を持ち、沸点が100度を越える』ような現象だ。
 最悪のケースは『コップの中の水が連鎖的に100度となり、コップが粉々に割れる』だった。つまり宇宙の崩壊だ。
 だが今回は、たまたまコップの中の水が一部、一気に蒸発しただけで済んだ。周囲の水への影響なしにな。幸か不幸か……」
「この、内側にいた人々はどうなってしまったのでしょう?」 
「君も想像はついているだろう? 常軌を逸した熱を産み出した彼らは、この5分ほどの間に時空ともに急加速し、時空の果てのまっさらな虚無に呑み込まれたのだ。無論、その前に寿命を迎えた者もいたろうが──」
 そこであることに気づいた時任は嗚呼、と嘆息を吐いた。
「所長、この現象が起きうるのは、日本だけではないのですね」 
「そうだ。世界各地で起きうる。もうすでに起きている地域もあるだろう。しかし幸運にも『コップの崩壊』までには至っていない。我々がまだ生きているということはな」

 そこでだ、と戸地所長は言った。
「君はさっきから、撮影をしていただろう。どこまで撮られているかわからないが、重要な動画になりうる」
「研究の、ですか?」時任はスマホを出しながら言った。
「違う」戸地は首を振りながらスマホを受け取った。
「他の地域での、このような悲劇を防ぐのだ。地球には時差というものがあるだろう?
 このような『狂騒』が起きかねない国と地域の科学者、政府に警告を出すため、その動画は大変な説得力を持っている──」



 果たして、時任の撮影した「渋谷駅前が加速し消滅する」動画は、世界へと発信された。
 似たような現象はすでに各地で観測されていたが、動画として記録され、仮説とは言え「説明」が加えられたのはこれがはじめてであった。
 疫病により強化されていた政府自治体の連絡網が役に立ち、大規模なクリスマスその他のイベントは中止、または解散させられる形となった。

 日本での騒動以前に「加速」して消滅してしまった人々は、渋谷駅前の約2500人を含めて、実に5万人を越える。
 だが戸地と時任の報告と各国政府の迅速な対応によって、「加速」による犠牲者は以降、二桁に押さえられた。



 戸地寛二は翌年の国際会議の場で、時任と共に賞賛された。
 疫病の次に人類を、いや地球、宇宙を襲った巨大な脅威を防いだのである。その賞賛も当然と言えた。



 その会議の場において戸地は、「時任との話し合いの結果」として、このように語った。
 その言葉を引いて、この話を終えたいと思う。



「実におそろしい現象でした。避けられることなら二度とこのような悲劇を、危機を、起こしてはなりません。
 さて、この驚嘆すべき時空現象の呼び名ですが、我々2人の名前を冠すのは、いささか荷が重すぎると感じております。
 しかし──私は国粋主義者ではありませんが──日本にはこのようなものを表現するのにぴったりの慣用句があります。
 祝うべきこと、楽しい出来事が重なった際に日本で使われるこの言葉を、この現象に名付けたいと思うのです。
 それはこう言います。


『盆と正月が一緒に来たようだ』 


 すなわち私と時任はこれを、『ボン・ショーガツ現象』と呼びたいと思うのです。皆様、いかがでしょうか?」



(会場、割れんばかりの拍手──) 







【おわり】





 本作は、 #パルプアドベントカレンダー2020  参加作品です。長くなりましてスイマセン……と書こうと思ったら、みんな長くてパワフルな力作揃い! ヌワーッなんてこった!! それはさておき10日後の聖夜前後には……みんな気をつけろ!! 


 明日は ばぷるさんの『赤白緑そして赤(青を含む)』 です! ハリキッテドーゾ!!


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