見出し画像

辺境人の時間 #2

ボクは、辺境人(マージナルマン)が大好きだ。遠い昔から、自分自身が、辺境人でもあると思っている。仕事や遊び、どこかに属していても、メインストリームにいない気がする。でも、それでよい。いやその方がよい。だって、辺境から見える地平の方が、より遠く未来を指し示すような気がするから。辺境人こそが、イノベーターにもっとも近い人だと思っているから。

【marginal man】互いに異質な二つの社会・文化集団の境界に位置し、その両方の影響を受けながら、いずれにも完全に帰属できない人間のこと。社会的には被差別者、思想においては創造的人間となりうる。境界人。周辺人。(Weblio辞書より)

マージナルマンイメージ2

今回から2回に分けて、浪人時代のことを書こうと思う。今回は、ノンフィクションとして、記す。

ボクは、京都府の公立高校の出身だが、その当時、現役生のほとんどが大学受験に失敗し、浪人をするという環境にあった。おそらく、卒業生全体の30%程度が四大への進学を希望するが、実際に現役合格を果たすのは、恐らくその2割程度ではなかったか?つまり、大半の人間が、予備校に通い、次年度の合格を目指すのだ。御多分に洩れず、私もその仲間入りを果たし、4月から、晴れて、予備校に通うことになったのである。

【解説:なぜ京都の公立高校生は、当時、学力が低いと言われたのか】京都では、小学区制(居住地域の公立校に入学する仕組み)という学区制度を取り入れていて、学校間格差が生まれにくくなっていた。中学時代の過剰な進学競争の歯止めとして一定の効果を上げた。一方、公立の進学校は存在しなくなり、いずれもおしなべて学力が低いと言われる現実を招いた。旧制高校の流れをくむ公立校でさえも「地元の京大が遠い」と揶揄される状態で、この学力問題は、長らく保守と革新の政争の具にもなり、後に府政の政権交代を引き起こす材料になった。ボク的には、小学区制は、今でいう「多様性」「ダイバーシティ」を前提にした制度であり、これを上手く活かす教育手法が当時あったなら、どれほど良かったことかと今更ながら残念に思う。経済成長真っただ中の日本において、多くの教育関係者が、学歴ヒエラルキーを補完する教育体制に呑み込まれていたわけだから、その無念さも、そもそも幻想でしかないというのもわかってはいるのだが。(ドンハマ★談)

大学受験には、見事なまでに全滅したボクであったが、いくつかの予備校の選抜試験には、なんとか合格を果たし、駿台予備校京都校に通うことになった。

予備校に拾われて、落ち込み気分は少し緩和されたものの、高校生でもなく、大学生でもない、その間のモラトリアム状態。やはり、社会からの「落ちこぼれ」意識はそれなりにあり、また決して裕福な家庭ではないと感じていたから、前期に納める授業料等の金額に驚き、二浪はあり得ないというプレッシャーを当初は強く感じていたと思う。

駿台というと、京都では、最も進学実績のある予備校で、その中で、私は「私立文系」コースの一番上位クラスに入ることができた。順調に行けば、来春「関関同立」の合格は、ほぼ間違いのないクラスであったと思う。クラスメイトと話を交わし、出身高校を聞くと奈良の超進学校の人もいた。なんでも彼は、現役合格した大学もあったらしいのだが、確か「早慶上智」を狙っていて、あえて一浪を選択したというようなことを言っていたように思う。予備校で上のクラスには入ったものの、周りを見回すと、すぐに落ちこぼれるのではないかという恐怖心はあったと思う。

一方、実際の授業が始まると、今までの《勉強》のイメージが一新される驚きがあった。特に、駿台の看板講師である、表三郎氏の「英文読解」の授業は、やみくもに覚えるのではなく、思考するアプローチであって、「作者や出題者の意図を組みとりながら解を導いていく」という一連の作業は、未知との体験で、《学問》の面白さを体感している気にさせてくれた。そのような刺激的な授業が、他にもいくつもあったので、ボクの脳みそは「考える」ことの面白さに爆走し始めたのだ。

通学経路は、二条城の隣に位置する予備校まで、三条京阪の駅から、市バスで10分ほど乗るのが通常パターンなのだが、これが大抵の場合の大混雑になり、特に帰りは乗れないことも続出したので、早々にバスの乗るのが嫌になった。で、そうしたかというと毎日毎日、片道約30分(往復1時間)をてくてくと歩くようになったのだ。


前出の表三郎氏は、よく哲学の話も講座の中でしていて、古代ギリシャのソクラテスが、志井を歩きながら、いろんな哲学問答を繰り返したようなことを聞いていたものだから、まるで自分もそんな風になったつもりで(誰かに問いかけるわけではなかったけれど)「人間はなぜ生まれてきたのか」とか「なぜ人は死ぬのか」などの哲学的テーマを自問自答しながら、歩いていた。雨の日も風の日も。授業が、1コマしかない日も相当の通学時間を掛けて、ただ哲学対話をして、歩いていたのだ。

予備校で、自分の成績がどの程度だったかは記憶にない。下のクラスになることはなかったはずだから、それなりにキープしていたと思うが、成績アップに夢中になっているクラスメートたちとは一線を画したい気持ちになっていた。例えば、彼らが(もちろん一部の人間なのだが)食堂のランチ代をちょろまかす姿を見て、こんな奴らと成績を競うのがアホらしくなってきたりもしていたのだ。予備校の食堂では、食事の代金を缶々みたいなモノに入れるシステムなのだが、食堂のおばちゃんが、目を離した隙にお金を「入れた!入れた!」とちょろまかすという愚行を繰り返していたのだ。おばちゃんもなんか怪しみつつも、結局、咎めることもなく、そんなランチタイムが繰り返されていたのだ。

夏頃には、大学なんて、どこへ行ってもそれほど変わらないのではないかと思い始め、「私立文系」コースに在籍しながらも学費の安い「国公立」受験に方向転換する。表三郎氏はすでに憧れの人になっていて、彼が大阪市大の院卒で、全共闘の活動家でもあったことを知り、私の志望校選択に大きな影響を与えた。

高校時代の私は、学校の管理教育体制(スカートの丈を校則で決めて、生徒指導と称して、教師が物差しで実測するという類のヤツ)に対して、教師に異を唱えるような生徒でもあったから、参考書よりも安保闘争について書かれた書物を読んで、若くして散った者たちへの鎮魂を願いつつ、時代に対峙する《生き方》に強く憧れ、大阪市大への入学を希求するようになった。

当時、一番心揺さぶられた書籍は「明日への葬列」(高橋和巳編)。表氏が授業で紹介した記憶がある。

このように大阪市大を志望し始めた自分であったが、冷静に考えて「私立文系」コースでは、国公立の受験科目に足りないものがいくつもあった。これは、予備校では教えてもらえないので、自学で補完しなければならなかったのだが、根拠に乏しいのに、何とかなるだろうという自信に支えられ、日々を過ごしていったのだ。

「倫理社会」と「地学」を選択することに決めて、実際に勉強したのは、薄い問題集それぞれ一冊であった。あのなんとかなるだろうという根拠はどこにあったのかと思う。

次回は、そういう浪人生活の中で、およそ浪人らしからぬことを始めたことについて記したいと思う。※「辺境人の時間#3」へと続く



よかったら、「スキ」や「フォロー」のリアクションお願いします。えみラボ(えほん未来ラボ)のWebサイトもご覧いただけるとうれしいです。https://ehonmirai-lab.org/