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26歳の希死念慮


今年一年はなんだかこれからの人生や死について考える時間が明らかに増えたと感じている。今でも気を抜くと余計なことを考えてしまいそうになる。

しかし決して暗くて重い話をしたいわけではないし、実際に暗くて重い話でもない(と思う)。
私はそれなりの距離を保った上で、あくまでも人生の行き着く先の選択肢の一つとして冷静に死というものに思いを馳せていた。こうして考えられているうちはきっとまだ大丈夫だと、どこかでそれを心の指標や支えにもしていた。


2020年を振り返ってみて、ここまで人生の終わらせ方について考えた年はなかったかもしれないと感じている。

時代のせいなのか、はたまた年齢的にそういったタイミングなのかはわからないが、少し特殊な時期を過ごしたなと思う。
どうにかこの感情や思考回路を残しておきたいので、未完成のまま放置していた2020年10月の雑記を掘り返してみる。


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10月も半ばを過ぎた。季節がすっかり変わってしまったのを感じる。秋服の寿命は短い。


ついこの間まで夏だったはずなのに、気づいたらもう冬。こんなことをあと何度か繰り返して、私は死んでいくのだろう。平均寿命を考えたらあと数十回は「秋服は短命だな」と思うはずだが、人生何があるかわからない。あと数回しかこの季節はは来ないのかもしれないし、実はもう来ないのかもしれない。


「明日死ぬつもりで毎日を生きろ」とはよく言われる言葉だ。堕落した日々を送っている時には、背筋を伸ばして生きていこうと思わせてくれるような前向きな力のある言葉だと思う。


しかし実際、毎日「明日死ぬつもり」なんてそんなものは無理だ。


もう明日は生きていないかもしれないし、まだ数十年は生きないといけないのかもしれない。ヒトの生命の在り方について言及できるほどの知識も倫理観もないが、無いからこそ言わせてくれ。流石に極端すぎやしないか。



終わりがいつなのかわからない物事を、ベストな方向に持っていこうとするのはなかなか困難だ。秋服の話からいきなり死を見つめはじめるほどのナチュラルボーン陰気人間ではあるが、私はこれでも「できる限り楽しんでこの人生を終えたい」と思っている。


幸せを感じる時間と、そうでない時間を天秤にかけて、最終的に前者が少しでも、いや、明らかに重い人生だと良いなと思う。謙虚に見せかけておいて私は貪欲で強欲な女だ。悪かったな。


時間、金、心、脳、肉体。私が持っているものをどのような割合で、どのようなヒトやモノに割くのか。どのように割けば、幸せな生涯だったと思えるのか。これを考えるには、人生の終わりがいつなのかを想定できた方が良いだろう。しかし、如何せんそういうわけにはいかない。


先日、これからの人生設計を思い描こうとしたときに、ふと保険や資産運用のことを考えた。私だってもう大人なのだ。


しかし「うっかりすぐ死ぬかもしれないしな……」と思ってしまい、考えることをやめた。

来るかどうかもわからない未来のために、どうして月々の可処分所得を減らさなければならないのか。私にはその意味が分からない。分かろうとする気力もない。

私は未だ大人になれていないようだった。




家族がいればまた違ったのかな。誰かと生きるということは、勝手に死ねないということだから。





勝手に死ねる私が、次に考えたのは安楽死だった。その時は「前向きに生きるためにいざという時のことを考えておこう。」くらいの気持ちだったが、なんとなく人に話したら引かれるということはわかるので、あまり口外しないようにしている。


何かから逃げるように今すぐにでも死にたかったとか、そういうわけではない。しかし、この人生の終わりを決めて、そこまで全速力で駆け抜けるのが良いのではないか、寧ろそうあるべきなのではないか、と思った。そういう命の在り方もアリなのではないかと本気で思っていた。


当たり前だとされることや、なんとなくの常識に私はあまり縛られたくない。思慮が足りないのは百も承知で言わせてもらうが、どうして寿命まで生きなければいけないのかと思ってしまうことがたまにある。


もしかしたら数十年後、数百年後には「昔は死ぬタイミングも自分で決められなくて大変だったのよ〜」と驚かれる世の中になっているかもしれないじゃないか、と本気で考えたりもする。生きる権利があるなら死ぬ権利もあるだろうと、思春期をこじらせたような恥ずかしいことまで、私は本気で考えていた。



たぶんちょっと疲れていたんだろう。あるいは暇。もしくは睡眠不足?

人間が変なことを考える時は大体、疲労か暇か睡眠不足が原因だという持論が私にはある。心の調子が悪いなと思った時は、あったかいお風呂にゆっくり浸かってとにかくたっぷり寝た方がいい。これは我が家の家訓だ。(今決めた)


死を恐れる気持ちは多かれ少なかれ人間誰しもあるとは思うが、私は生き続けなければならないことの方が漠然と、しかし猛烈に怖かった。


常にそういうことを考えていたわけではないが、そういった生きることへの恐怖は昼夜問わずふとした瞬間に襲いかかってくる。気づいたら飲み込まれそうになっている。


別に何か大きなきっかけがあったわけでもない。ただ、生きているということに飽きてしまったという感じだ。そう、飽きた。飽きたという表現が一番しっくりくる。


25歳を過ぎて、これからの人生の先細り感を妙に察してしまい、どうせつらくなるならばもうここで畳んでしまおうと思った。


つらい日々もあったけど、幸せな瞬間もなんだかんだ沢山あった。大人になって自立してからは特に、良い余生を過ごせたなと感じている。割と楽しい人生だった。私の器にしてはよくやった方なんじゃないか。もう充分だ。この人生で成し遂げたいことは、もう何も無い。




人間の意識が死に近づく瞬間というのは、何かに絶望した時ではなくて、満足或いは停滞した時なのではないかとふと感じた。

とてつもなく辛いことがあった時は死にたいというよりも逃げ出したいし、なんなら強欲さゆえに「このままじゃ死んでも死に切れない」と思ったりもしていた。今回のように「もう充分だ」と思った時の方がきっと危ない。


何かがあった時よりも、寧ろ何もない時。だから、人が死んだ時に「何があったんだろう」だなんて直近の出来事を考えるのはとても的外れなのかもしれない。

何もないんだよ。「何もない」がずっと続くことが「何か」なのかもしれないけれど。





しかし、これだけ長々と書いてきたが、結局私の痛快ワクワク安楽死計画は昼休みの数分間のネットサーフィンの最中に頓挫した。

諸々は割愛するが「実現不可能っぽい」というのが一番の理由だ。今の私では理由もお金も(おそらく覚悟も)なにもかも足りない。


また、とてもありがちな理由になってしまうが、命を粗末にしてはいけないなと思わされてしまった。病気などのままならないことが原因で生きていることによる苦痛が大きく、そのため安楽死が認められたという人の記事を読んでいたら、何も言えなくなってしまった。

別に私が生き続けたところで、その人のためには何もならない。これが命じゃなくて、ただのモノだったら「不要になったので処分します」が罷り通るのに。(とんでもないことを言っているのはわかっている。)


しかし、できないことを考えても仕方がない。私はなんだかんだ切り替えの早い女だ。

どうやら私は生きていくしかないらしい。いつ襲ってくるかわからない、この原因不明の希死念慮とも付き合っていくしかないのかもしれない。もっと大人になったらこんなことを考えなくて済むのだろうか。
いや、もう充分いい大人なんだけど。


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10月頃からなんとなくずっと不調で、「とにかく生きるか死ぬか決めないと」というようなことばかり考えていた気がする。その最中に思考を整理するために、ひたすら打ち込んだのが以上の雑記だ。


しかし、打っているうちに当面は生きていくしかないようだと気付かされたので、とにかく自分をとことん甘やかしてでも一日一日をなんとか食い繋いで行こう思い、旅行や映画、人に会う予定などをたくさん入れた。生活の中に小さな楽しみや刺激を詰め込んで忙しくして、余計なことを考える時間を作らないようにした。
金に物を言わせたり、他人に寄りかかったりと、こんな小手先だけの方法で雑に生きていて良いのだろうか、私はなんて薄っぺらい人間なんだと何度も何度も自己嫌悪に陥ったが、これは生き抜くための必要経費、心の延命治療だと自分に言い聞かせて、なんとかやり過ごした。


それなりに楽しく過ごしたはずだったが、やはりどこかで「だましだまし人生をやっている」という気持ちが抜けなかった。人生ってだましだましなんかでよかったっけ?やっぱり畳むべきじゃない?と、また足を取られそうになる。


しかし、先述の通りできないことを考えても仕方ないので、出来るだけ前向きにだましだましの人生を捉えようとする。


そうだ、そもそも人生はだましだましなのかもしれない。みんな言わないだけで、日頃そこまで深く考えないだけで、本質はそうなのかもしれない。生きていくというのはそもそも苦しいことが前提で、みんなそれをなんとか無意識に近い状態で受容して生きているのかもしれない。苦しい中で、楽しいことをなんとか作り出して日々を生きている。あれ?これってなんか仏教とかの話ですか?

だから私が、小手先のあれこれで毎日をどうにかしようとするのも別に悪いことではないのかもしれない。少しだけ自分を肯定できた。サンキューブッダ。詳しいことは知らんけど。
他の人も当たり前にやっていること、それを私はちょっとだけ短期間に詰め込んでみた。それだけだ。


「人生は死ぬまでの暇つぶし」などという言葉があるが、やや後ろ向きなニュアンスでこの言葉に納得する日が来るとは思わなかった。
所詮暇つぶしだし、生きてる意味なんてなくて良い。そうなると本当に人生とはなんなんだろうなとも思わされるが、そんなのきっと私ごときの人間にはわからない。ただ死ぬまで生きていくしかないのだ。


小手先のあれこれでここ数ヶ月を駆け抜けた結果、少しだけ気持ちが落ち着いてきたように思う。単に心と身体が疲れただけかもしれないが、希死念慮はここ最近ないし、また、予定の詰め込み癖も少しずつ収まってきた。「とりあえず生きていくしないのだろうな」となんとなく以前よりも理解できた状態になったような、そんな気がする。


できるだけ何にも執着せずに穏やかな余生を過ごしていきたいと思っていたが、凪の状態をひたすら続けるのも、それはそれで結構難しい。少なくとも私は向いていないタイプみたいだ。2020年、悲しい気づきを得てしまった。


小さな目標でもあれば良いのかな。だけど希死念慮の前ではそんなのどうでもよくなっちゃうんだよ。
だったら生きていかないといけない理由でも作れば良いのかな。あまり何にも縛られたくないんだけどな。


どうしたらいいのかはわからないが、どんな方法を選んだとはいえ多少の苦痛は受け容れないといけないのだろうなということはわかってきた。わかりたくもなかったが、もうそれが人生だ。仕方ないのだ。


私は死ぬことを諦めて、生きていかなければいけない。そして、生きていくことはそもそも苦しみを伴うことなので、苦しまないことも諦めないといけない。また、終わりがわからない、決められないという苦しみも、人生の苦しみの一つとして考えて、受け容れないといけない。


希死念慮と向き合う中でこれらのことを改めて諦めて受け容れた結果、少しだけ前向きに進む…とまではいかないにしろ、なんとか立ち上がって前を向いてその場で足踏みをしていられるくらいにはなれた気がする。
それまではひたすらレールの下を覗き込んだり、その場で不貞寝したり、後ろを向いてこれまで敷いてきたレールをぼーっと眺めるなどしていたが、なんとか重い腰を上げられた気がする。
苦しい時間だったが、(そしてそれがまだ終わったとは言い切れないが、)とことん向き合うことができて良かった。


一年の終わりだからと良い感じにまとめようとしているようでなんだか洒落臭いが、いつまで経ってもうじうじと考え続けることのできる問題については無理矢理区切りをつけることも大切だ。


何が自分にとって正解かはわからないが、来年も私はきっとなんとかやっていく。だましだましでも良いし、たまには他力本願になってもいい。
ずっと抽象的な話ばかりでうまく言葉にできていないので何も伝わっていないと思うが、私は勝手に少しだけ道が開けたような気がしている。
わかりやすく新年に向かう雰囲気に惑わされているだけかもしれないけど、もういい。乗っかれるものにはどんどん乗っかっていくぞ。


苦しむこともある程度受容して、やりたいことをやっていく。やりたいことをやっていく上で、苦しむこともある程度受容する。
私がいまやるべきことは、きっとこれを繰り返すことだ。

心穏やかな余生の中で、少しでも痛みを伴うことは悪だと思って避けている節があったが、それが過剰防衛になっていたような気もする。

どこか隠居しているような気持ちになっていたが、隠居生活には残念ながら飽きてしまった。凪の人生はどうやら私には向いていないみたいだ。もうそろそろ諦めよう。

人生を俯瞰することも大切だが、自分自身がどうしたいのかがわからなくなっては本末転倒だ。自分の持ち物を何に対してどれだけ割くかをトータルで人生を眺めて逆算したいから安楽死?私ごときがえらそうに。何様のつもりなんだ。
生まれてしまった以上、もう腹を括って恥を承知で私が私を全力でやっていくしかない。命を使い果たすまでやるしかない。

と、勢いだけは立派だが、勢いだけで突っ走るとうまくいかないこともこれまでの経験上よく分かっている。私は放っておくと本当に極端な思考と行動に陥ってしまう人間だが、この世の中のあらゆる事象は極端でないことがほとんどだ。そのことを肝に銘じて、落ち着いて物事と向き合っていけたら良い。


タイトルの割になかなか平凡な着地になってしまった。まぁでもこんなものだろう。読み応えのない、ヤマもオチもない記録だが、私自身としては年末につらつらとこんなことを呑気に吐き出せる状態になれて良かったなと思っている。

今日は爪に色を塗った。明日はお気に入りの喫茶店に行こう。もう生きる気しかない。

とりあえず来年もあったかいお風呂にゆっくり浸かってとにかくたっぷり寝る。この家訓を大切にします。

おしまい。おつかれさまでした。
みなさま良いお年を。

大人になってからの方が沁みる。大好きです。

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