いちにちひとつ、かたづける。【小説から学ぶ】
みなさん、かたづけは得意だろうか?
ちなみに自分はめちゃくちゃ苦手。
家事では掃除・整理整頓などいわゆるかたづけが全然得意じゃない。
というか家事なのに生活に定着していないのが大問題。
一方で妻はかたづけが得意。
朝から汚い汚い、掃除掃除と連呼しながら、掃除機をぶん回している。
仕事で疲れた日も、旅行で忙しなかった日も、寝る前には整っている。
おかげさまで、妻が干渉する生活スペースはきれいに保たれている。
いつもありがとうございます。
自分の部屋は徐々に床が不要なもので侵食され、足の踏み場が少なくっている。いかんいかん。
同じ家に住んでいるのに、どうしてこのような結果になるのだろうか。
この問いを考える前に、ひとつ紹介しておきたいものがある。
SF小説の金字塔、フィリップ・K・ディック著作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』において、「キップル」という概念が登場する。
本小説の造語なのだが、「キップル=役に立たないものの総称」として定義されている。物語内でこの概念に出会ったときに、部屋を見渡してキップルを探し出したことが思い出される。作中ではキップルの例としてこのように紹介されていた。
閑話休題、ここで投稿主のどめす夫婦の状況に改めて目を向けてみる。
どめすと妻の大きな違いは、「キップルに対する感度」の一言に尽きる。
妻は不要と判断したものはがんがん捨てる。ちょっとしゃれた包装紙や化粧箱など、「今後何かに使えそうだなぁ」と思うものも一瞬のうちに破棄する。あの潔さがキップルを淘汰する最高のコツなのだろう。
もはや染みついているといっても過言ではない美意識、
そこで意識的に取り組み始めたのが「いちにちひとつ、かたづける」ということ。(やっとこさタイトル回収)
リビングや自室を見渡してみて、何かいらないなと思うものがあったら即座にかたづける。洗濯物や出しっぱなしの文房具など見つけたらすぐに所定の位置に戻す。
なんだよ、当たり前のことじゃん!と感じる人も多いと思うが、美意識が養われていない人間にとっては、これができるだけでご褒美ものなのだ。
(現にどめすは掃除を終えたら自分に賞賛の言葉をすごく投げかけてモチベーションを維持している。)
「いちにちひとつ」と限定したのは単純に意識の問題なのだが、掃除をやり始めると、気になる場所がどんどん出てきて最終的にすべてきれいにしてしまうことが多い。そのきっかけを作るための「ひとつ」なのだ。
ここでキップルについて、作中での見解を。
かたづけが苦手な人も、キップルを取り除くためにいちにちひとつ、かたづけてみてはどうだろうか?
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