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「考えよ」という啓蒙の弱点

静まり返る教室で誰かの言う「自分の頭で考えてみましょう。」眼前に広がる真っ白な用紙。何を書けばいいか分からず焦慮する自分。
恐らく多くの人が学生時代に経験したことがあるであろうこの「考えよ」よ強要について。

まず、「考えよ」と言われる側には考えるための素養が備わっていることが前提となる。

しかし、頭のつくりは皆同じではないし言葉や文字でさえ平等ではない。ある程度人達はある程度の文章は読めるだろうが、考えるためには言葉を”自分のモノ”にしなければならない。何となく言葉の表面だけをなぞって何となくの意味で読んでいくのとは違い、考えるためには言葉を自分のモノに─言葉を自分の中で咀嚼し定義を確認したり、己の中で定義─できていなければならない。

仮に自分が考える土台を持っていないならば、言葉を自分のモノにできていなかったら、「考えよ」と言われることは苦痛でしかないだろう。noteでそれなりの記事を読むことができ、この記事を読んでいるようなアナタは恐らく「考える」前提を持ち合わせているだろう。若しくはその可能性が高い。忘れてはいけないのは、この世にはそのような前提を持ち合わせていない人が我々が思うより多いという事実である。

私はつい最近まで言葉は、文字は平等に与えられたものであると思い込んでいた。しかし、ある友人は漢字が読めないし、ある友人は少し長い文章になると理解ができなかった。その時、19歳になって初めて言葉が平等に与えられている訳では無いという衝撃的な事実を知った。我々の心の内を通じ合わせる時に用いる媒体が平等に与えられたものではないという事実は私を一時的な絶望へと突き落としたのだ。

これまで私が言ったことが実は周りの人達に伝わっていなかったのかもしれない。そう気づいた時、これまで私が周りに言ってきた「考えよ」は一種の無理強いであったのではないかと思ったのです。100m走るのに20秒かかる人に対して15秒で走れと言っているのと変わらないのではないかと。

「考えよ」というメッセージが至る所で標榜されているが、「考えよ」と言われ続けた結果できる社会というのは「考える」土台を持たない人を置いていった”よい人だけでつくられる社会”ではないだろうか。

本当にそれでいいのだろうか。

誰かを置き去りにする社会で本当にいいのだろうか。


ほらまたこうやって読んでくれた人に問いかけて、「考えよ」と言わんばかりのことを書いてしまう。

どうしたら良いのだろう。割と真剣に悩んでしまう。はっきりとした答えがつい欲しくなってしまいますね。

皆さんの感想を、考えを是非コメント欄に書いて行っていただければと思います。

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