『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』×『無理ゲー社会』×『全部運命だったんかい おじさん社会と女子の一生』

二発目の記事です。

記事のデザインやレイアウトは慣れてきたら少しずつ改良していこうかなと思うところです。

では本題に入ります。

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まず、それぞれの本のベクトルをまとめます。

タイトル順に、

A::マジョリティ側にいる男性は何をできるのかを問う本

B:格差が蔓延る世の中でどうすればいいのかを問う本

C:高学歴女子の生きづらさについて、問題提示をする本

となっております。

3つは内容が似ている反面、方向性がやや異なっております。

これらは、社会の「交差性」「複合性」の様相を呈しているように見えます。

例えるならば、太陽系のように、別々に独立しているように思えるところが、実は重力という見えないもので繋がっている、というところでしょうか。

この場合、太陽、すなわち「中心」は、「誰もが願う普遍的な幸せ」のように思えます。現状では「椅子取りゲーム」的に、異なったアイデンティティを持つ方々が「幸福」という名の限られた「椅子」を取り合っているようにも思えます。

その椅子は、「既得権益」「覇権 = (ヘゲモニー)」という具合に、独特の名前を持っています。

私には、これらの椅子が増えるようには思えません。すなわちパイは固定されたままで、椅子の絶対数は変わらないと思うのです。

大事なことは、椅子取りゲームのルールを変えたり、ゲームをやめることを考えること。椅子は増えないので、椅子と椅子の間に板をおいて「皆が座れるベンチ」にするような発想をいかに作り出していくのか、そう思います。

抽象的な理論から実践へと具現化させていく。

そのためには何をすればいいのでしょうか。

残念ながら、この3冊を読むことでは、私は糸口が見えませんでした。

もちろん私の力不足ではありますが、3つめの記事で先へ進みたいと思いました。

つづく

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