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分かった気でいる動詞NO.1 「愛する」

「私」が恋人と生活をともにし、相手を他者としてではなく、「私たち」の一員として捉えるようになったとき、恋愛は終わるのである。

「愛する」とは、「相手から愛されたいと思うこと」であり、したがってまた「相手が私から愛されたいと思うようになってもらいたいと思うこと」である

恋愛の哲学 戸谷洋志


現代社会においてもっとも大きな影響力を持っているのは、ロマンティック・ラブと呼ばれる考え方だ。

ロマンティック・ラブ、これは恋愛を結婚へ至る過程として理解する恋愛観らしい。

そして私たちが今当たり前としているこの愛、ロマンティック・ラブは人類の歴史を振り返ってみるとめちゃくちゃ新しい考え方だという。

日本では高度成長期に浸透したものだから、日本史の中でもめちゃくちゃ最近ということである。

なるほど、私たちが愛や恋、そして結婚についてパニックを起こしているのも、長い歴史を見れば当たり前なことなのだ、なぜなら新しすぎるから。

ロマンティック・ラブ、恋愛の先に結婚があると思い、その“愛”が土台で築き上げられると思っている結婚、これは人類には新しすぎるのだ。

事実、古代ギリシャの頃には“恋愛”と“結婚”は全く交わることのない、別のコンセプトだった(ここまで別だといっそ清々しい!笑)


私が恋愛する歳に差し掛かった頃、とても周りとの温度差を感じたのを覚えている。

私にとって恋愛は、なんというか贅沢品というポジションで、常に生活の優先順位の最後になってしまうものだった。

勉強、バイト、家族とのあれこれの最後に、余力があったらやるもの。

それに対し、周りの友達はなんというかある種の“緊急性”を持って恋愛と関わっていたように見えた。

それは「彼氏・彼女がいないとバカにされる」とか周りの目から生じる緊急性でも「性的にあれこれしたい」といった性欲に裏付けされた緊急性でもない気がした。(多少はあったとは思うけど)


それはなんというか、恋愛によって、他者に愛されることによって、自己を確立するような、自分というものの像を結ぶような、自分の価値を確かめるような、そんな自分の核が絡まって生じる緊急性であった気がした。

実際この辺はヘーゲルに通じる考えだと思う。

他者から愛されるということは、特別な意味を持つ出来事である。
それは、あってもなくてもよいものではない。
愛されることで、初めて、人間は自分がどのような存在であり、どんな価値を持っているかを、理解できるからだ。


ただ、この愛されることを求める過程で、尋常ではない問題が発生する。

それは簡単にいうと、「自分の主体性に対立する構造を持つ相手の主体性への理解の仕方」「相手と自分の境界線をどこに置くのか」ということだと思う。

これは、ヘーゲルだけではなくプラトン、デカルト、キルケゴール、サルトル、ボーヴォワール、レヴィナス、みんなが考えた問題だ。

デカルトなんかは、そもそも人間は半分欠けていて、愛する人、つまり「片われ」に会うことで満たされるという考えで、境界線をある意味完全無視しているし、逆にサルトルなんかは、“わたし”と“あなた”の間の溝が深すぎて、その境界線が愛のシーンにおいて、主人と奴隷を生むと考えた。(私は個人的にこのサルトルの突き抜けて悲しい恋愛観が好きでした。)


私は男性と仲良くなればなるほど、どうしても拭えない違和感みたいなのを抱えていたけれど、その違和感の正体はこの「自分と他人の境界線」と「主体性」が関係していたのだと分かった。

愛するということを、生まれながらにできる人なんていない」と誰かが言っていたけど、この本を読んで、人を愛するとは一体どういうことなのか、哲学者の視点を借りながら考えることができてとても面白かった。

そしていかに自分が“愛する”ことについて分かった気になっているのかということにも気がつけた。


これはなかなかに強烈な本でした。

一回“愛する”という行為の意味を知ってしまったら、この世界の解釈も、周りの恋愛も、自分がお付き合いする人も、全く違う見え方をしてしまうような。


勇気がある人はぜひ。

Written By あかり

アラサー女

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