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精神分析 is 何?(その1)

 精神科通院歴がある、と聞いてどんなイメージを持つだろうか。おそらく大多数の人が、やばい、怖い、近づかない方がいいと思っていると思う。

 私は、精神科通院歴10年以上のベテランだった。でも、仕事もして(現在は退職)、結婚もして、子供もいる。服薬は弱い睡眠薬と、お守り代わりの吐き気止めだけしか飲んでいない。

じゃあ10年以上もそんなとこで何してたのよ。

答えは、10年もうんざりするほど自分と向き合ってた。答えを読んで「は?」と思ったのなら、多分今後の文を読んでもピンと来ないと思う。それはむしろ幸せなことだし、読む必要も無い。逆に「あー」と思ったのなら、おそらく生育環境に何かしらの問題を抱えている、もしくはいたのどちらかだと思う。私は、父親との関係に問題がある。とにかく暴君でモラハラ気質、酒が入ると更に暴言が加わり、酷い時は暴力が上乗せされる。要はクズだ。モラハラは自覚しない限り絶対に直らない。母親へのモラハラ発言や嫌がらせを見て育ったひとり娘の私は、父と母が仲良く過ごすことを願っていた。ずっとずっと。結局、ただの1度だってそうはならなかった。父のモラハラは、当然私にもやってきた。

バカ
役立たず
舌噛んで死ね
のろま

なんて言われるのは可愛いもの。私はそれを飲み込んだ。だから、ずーっと自分のことが大っ嫌いだった。バカで役立たずで死ぬに値する程無価値でのろまなんだと。それが続くと、今度は希死念慮に苛まれる。死にたい、消えたい、存在を無かったことにしたい。でも、母親が虐められているから守らなくちゃいけないとも思っていたので生きていた。母親は、「あんたがいるから離婚出来ないの!」と、よく言った。今なら理解出来るが、子供の頃の私は言葉の通りに受け取った。

私がいるからお母さんはお父さんと一緒にいるんだ。
私がいなければお父さんとお母さんは離れられる。

 常にこんな状態で社会人になったら大変なことが起きた。トラブルが起こったら、全て自分が悪いと思うようなった。勿論、ミスはあったが、自分が発端ではないものもたくさんあった。気にしなくて良くね?なんていうことにもひとつひとつ気になった。社会人1年生の最後に、目標達成シートを提出したら、上司から呼び出しを受けた。

「どうして全部最低のところに○をしているの?」
「全部が全然出来ていないからです」
「基本的なことは出来てるよ」
「(どこが?)」
「とにかく書き直して。こんな低くないから」
「(え?)」

すべての項目で自己評価を最低の1に○をした。

だって、、、。
契約書作成は遅いし(べつに遅くない)、
請求書の管理は下手だし(ちゃんと確認してる)、
注文書送るのも遅い(確認して出してるから)もん。


社会人になっても毎晩毎晩、寝る前に泣いた。苦しくて辛くてやだ。でもバカで無価値だから仕方ないと。

 社会人のスキルで、ひとつだけ他の人にはないものがあった。おっさん(主に役員)たちを手のひらで転がすことだった。時にはタメ口、時には敬語を使い、ご機嫌を取るのが得意だった。みんなは出来ないと言っていたが、簡単だった。おっさんの顔色が変わる直前に「怒らないの(はーと)」と言えばいいだけの話。そう、ここで言うおっさんたちは、部下を容赦なく言い負かして潰すタイプの人たちだった。父親への接し方を自然に身につけてしまっていた私には、この手の大人をおとなしくさせることは難しくなかった。事実、おっさん達の下にいた人たちから感謝されたことはある。「(私)ちゃんが●●さんと話した後、報告へ行くと上手くいくんだよ」。でも、話してきてくれと頼まれたことはただの1度もない。

 社会人2年目に上がる際、遂に身体がおかしくなった。何も覚えられなくなった。書類はどこにやったっけ?請求書は出したっけ?電話に出ても言葉が出てこない。メモを探せど、どこに保管したかが思い出せない。頭が真っ白になった。ああ、頭がおかしくなった、きっと脳が壊れたんだ、、、。

母親に泣きついて大学病院へ行くことにした。

「うーん、それは精神科じゃないかな?」

大学病院へ紹介状無しで行ったので、総合案内で症状を話した。脳神経科を勧めてくると思ったら、話を聞いていた看護師さんから突然言われた。

 精神科、、、だと、、、?

放心状態の私を差し置いて、看護師さんは精神科へどうぞと言い、とぼとぼと行くことにした。実は精神科は初めてではない。ただ、少し話をして、薬を飲んだだけで根本的には何も変わらなかった。だから、また同じことをされるだけなんだなとしか思わなかった。誰も私の鬱屈とした長年の苦しみを分かってなんかくれない、、、。

名前を呼ばれたので診察室へ行くと、少しボサボサ髪の眼鏡をかけた30代くらいの男性の先生がいた。先生はニコっと笑った。私は、何を言っていいか分からず黙ってしまった。というより、頭がおかしくなったなんて恥ずかしくて言えなかった。その代わり、母親が私の状況を事細かに話してくれた。

「24歳で物忘れが激しいかあ、、、一応検査はするけど、脳じゃないと思う」

「?!」

先生は、まずはちゃんと寝ようと言った後、私の話をちゃーんと聞いてくれた。話やすい先生で安心出来たのだ。(1年後、この先生に10年以上お世話になるのだが、先生はもう見抜いていた。そもそも24歳にもなって母親が同伴していることが変でしょうと。後に母との関係にも色々あることが発覚、これは後述。)
軽い睡眠薬を貰って、1週間に1回通うことになった。報告と雑談が楽しみでしょうがなかった。反面、精神科に通う自分が惨めに思うことがあり、数ヶ月後に卒業すると言って、通院を辞めた。

 そして1年後、禁煙をしてイライラしまくっている父親に絶縁を突き付けた。この時、すでにパニック発作が再発(初めての発作は11歳)して、先生のところに通院はしていた。ちょっとしたことでブチギレる父親をぶっ殺したくて仕方なかった。死ね死ね死ね死ねと思えば思うほど、発作を起こした。尚、発作とは私の場合は吐き気だった。猛烈な吐き気の波が何回も押し寄せる。

「大っ嫌い❗️今すぐこの家を出て行け‼️」

心の底から父親を怒鳴り飛ばした。母親の面倒は私が見ればいい。仕事を辞めず、安定したお給料を貰っていたことが自分を安心させた。幸い、家は賃貸だったし、母親も亡くなって家主のいない祖母の家を残していたので、そこに2人で暮らすことになった。父親は実家へ行った。父親とはその後、11年絶縁することになる。今もこいつはさっさと死ねと願っている。無理、大嫌い。

 そんな矢先、先生はニコニコしてこんなことを言った。
「自分のこともっと知ってみない?」
「知りたーい」
これが、精神分析治療の始まりだった。先生は、精神分析とは?みたいなことをサラっとしか言わなかった。本当の精神分析は、週5日やるのが普通だと言われたが、「君は仕事もあるから、週1か隔週1回で来られる?」

こうして隔週1日、通院することになった。金額は保険適用で助かった。(後で知るが、精神科医が保険適用でやるのは超珍しいとのこと。)

 面談は、1回50分。決まった曜日の決まった時間にやることが望ましいものだった。雑談から入った後、先生は必ずこう質問してくる。

「どうしてそう思ったの?」

例えば、「父親と母親の喧嘩を聞いて、やめればいいのに」と言ったとする。すると、先生から上記のことを質問される。最初は、何も言えなかった。どうしてそう思うって?、、、どう?え?何が?うーん、、、の連続だった。先生は助けてくれない。どう思ったのか分からないには理由があった。どう思ってるかを考えている余裕が無かったのだ。常にイライラしている父親をなだめ、父親への悪口を私にぶつける母親をなだめていたので、自分がどう思ってることに時間を割けなかった。先生は、本当は何を思っていたの?ということを重要視する。どう思ったの?という質問に答えられるまで、ものすごーく時間がかかった。50分ひたすら考えただけで終わったこともある。カウンセリングとは異なり、心が癒されるなんてことは無い。ひたすら自分の気持ちに向き合い、本当は何を感じていたのかを徹底的に掘り起こすのだった。

つづく

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