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爆発する星々について

 こんばんは。ただいまの時刻は18時16分です。「こんにちは」と「こんばんは」の間の時刻ですがそれに相当するあいさつの言葉はありません。空が暗くなったので、こんばんは。私は今日はなにを話しましょうか。しかしここでは血の滲むような文章をいくつも目にしてきました。本気で、命をかけて書かれたと思われることばたちを目にしてきました。あたまの下がる思いです。

 そうです、これは私の指標ですが、必然から書かれた言葉は、そうでない言葉に比べてしなやかかつ頑丈で、運がよければ代を経て語り継がれていく、そう信じております。ですので私はやはり必然から書きたいのです。第一の反応として、怒りたいときには怒りたいのです。親愛がこころに芽生えたのなら、親愛をだいじに伝えたいのです。

 愛を、烈しく、敬虔に、そしてかなしく書いた詩集を、私は知っています。高村光太郎の『智恵子抄』では、私は智恵子さんが亡くなった後の詩もとても好きですが、まだ智恵子さんが生きていた頃の花ひらくような恋のはじめのふたりの生命もすきです。

すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生れたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある

		「人類の泉」『智恵子抄』新潮文庫より

  「あなたは私の為に生れたのだ」なんて、なんて傲慢な愛の表現でしょう。でも、そうでしか表せない愛の境地があることを、私は知っています。ほんとうにあきれてしまう。けれど、愛するふたりはお互いの境界が溶けていって、まるでひとつの生命かのように錯覚してしまう。すくなくとも片方は。そして言葉を継いで「私にはあなたがある / あなたがある / あなたがある」嬉しかった、喜ばしかったのでしょうね、高村さんは。一瞬の生命を他者のために爆発させる喜びを感じていたのでしょうね。

  そして、ふたりの輪郭が無くなった時には、もう接する地面も無くて、肌をひたすのは「人類の泉」そう思えてしまったのでしょうね。

  その後、智恵子さんは精神を病んでしまって、長い闘病の末、亡くなります。彼女の臨終を書いた『レモン哀歌』はやはりうつくしいかなしさに満ちていて、なかなか読めません。けれど、青空文庫で読めますので、ご興味があればぜひご一読をなさってみてください。

  「智恵子抄」は1941年に出されていますが、その13年後にまたあらたに、うつくしい愛の詩集が出ます。黒田三郎の『ひとりの女に』です。

それでも僕はまるでちがってしまったのだ
ああ
薄笑いやニヤニヤ笑い
口をゆがめた笑いや馬鹿笑いのなかで
僕はじっと眼をつぶる
すると
僕のなかを明日の方へととぶ
白い美しい蝶がいるのだ

		「僕はまるでちがって」『現代詩文庫 黒田三郎』思潮社より

 いいなあ、と思います。ひとりの女性の出現によって世界ががらっとちがってしまう感覚。このようなまばゆい瞬間に、人はなんど、めぐり逢うことができるでしょうか。そして何度、めぐり逢えばいいのでしょうか。『白い美しい蝶』とはなんでしょうか、もちろん「ひとりの女」に違いはありませんが、それは希望を意味するのでしょうか。悪意に満ちた、または猥雑に過ぎる笑いに溢れた街の中に、ふいに、あらわれた白い蝶。すべての恋がそうであるとは言えず、恋が最重要なものでもないひとも多いでしょうけれど、ある人にとっては、そして言い切ってしまえば私にとって、恋とはそんな魔力を秘めたものなのでしょうね。

 エランヴィタール、という言葉を思い出します。単に生命力と訳される時もあります。私の詩をある人に読んでもらった時に、送られた言葉です。私にとってはまるで静かな爆発のような、そんな印象を受ける言葉でした。高村さんにしても黒田さんにしても、起こっているのは烈しく、そして静かな、祈りにも似た爆発。全生命を賭けた一瞬へのダイブ。私も、そんな文章を書けるよう、精一杯に生きていこうと思います。恋をするしないには関係なくね! そして、これからもそのような文章が私の杖となって下さるよう、願いながら生きていこうと思います。

 ただいまの時刻は19時5分、夜もすっかり暮れました、それでは、またいつか。

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