見出し画像

「籠絡」の例文

知らない言葉や知っていても使ったことのない言葉に遭遇したときには忘れないよう書き留めているがいっこうに身につかない。そういう言葉を見つけてメモを開くと既に書いてあったりする始末。覚えるためには使わなければならない。「籠絡(ろうらく)」を使ってみる。

 足の生えた蛇を見たことがある。私がそう話すと、たいていの人は「それはトカゲじゃないの」とか「ムカデだろう」とか言って否定してくる。もう二度と誰にも話さないと毎回誓うが、ハイボールを5杯飲んだら忘れてしまう。カウンター6席だけの狭い居酒屋で隣り合わせた初対面のおじさんに、裏山で見た生き物について聞かせた。

 10歳まで住んでいた家のすぐ裏に山があった。まったく高くない、ちょっと傾斜のある森くらいの山。二階の部屋の窓からその裏山に給食を捨てていた。当時の私は好き嫌いが激しく、また当時の小学校は給食を残すことが認められない施設で、鶏肉の揚げ炒めやシチューの中のブロッコリーや大豆とひじきの煮物をじっと見つめて時間が過ぎるのを待つことがよくあった。3年生までは昼休みを耐え抜けば残飯として捨てることを許されたのだが、4年生のときの担任が頭のおかしな奴で、食べ切らなければ午後の授業に参加させてもらえなかった。私はその担任の目を盗んで嫌いな食べ物をポケットに押し込むようになり、家に持ち帰って裏山に投げ込んでいた。

 その裏山で足の生えた蛇を見たのは、小4終わりの春休み。引っ越し直前のことだった。荷造りが面倒過ぎて思考停止状態に陥り、ぼんやりと窓の外を眺めていると、裏山の木の枝に白い蛇がいた。今だったら安全な部屋の中から双眼鏡で観察するだろうけれど、そのときの私はなぜか家を出て裏山を登り、ときどき振り返って自分の部屋の窓の位置を確認しながら、さっき見た木を探し当てた。蛇はまだそこに居て、こっちを向くことはなかったが、私の到着を待っていたかのように動き出した。見ると、トカゲよりは多くてムカデよりは少ない足を駆使して上へ上へと移動していく。私は怖くなってすぐに家へ戻り親に報告したけれど信じてもらえず、まだ昼間で明るかったが部屋のカーテンを閉めて引っ越しの荷造りを再開した。

 ひと通り話し終えると、おじさんは足の生えた蛇なんか居るわけがないと笑った。またやってしまった、馬鹿にされてしまった、と後悔していると、おじさんは続けてこう言った。

「竜だろ、それは」
 
 思いがけない説を披露され、初めておじさんの顔をまっすぐ見た。白髪まじりの頭と額に刻まれた皺と鼻に浮いた脂が、まごうことなきおじさんだった。一番上のボタンの糸がほつれているよれよれのチェックのシャツを着たおそらく会社員ではないおじさんは、自分は竜を見たことはないがと前置きした上で、竜と蛇を同じ地平で熱く語り、その生態の違いを丁寧に説いてくれた。「だから君が見たのは蛇ではないよ」そう否定されたことで、かえって私が見たものを肯定された気がした。
 すっかり籠絡されてしまった私は、おじさんにハイボールを一杯おごった。角ハイじゃなくて、おじさんご希望のナントカというウイスキーのソーダ割を、私も一緒に飲んだ。味の違いは分かったけれど、どちらが美味しいかは分からなかった。その後もその店で会うたびにお酒をおごっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?