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『映画ドラえもん のび太と空の理想郷(ユートピア)』からみる理想や完璧の呆気なさや陳腐さ

どうも、ゑんどうです。

まず、ボクは映画が好きです。過去にシン・エヴァンゲリオン劇場版を見た際に書き記したnote野中でも触れているのですが、ボクはシン・エヴァンゲリオンを映画館で鑑賞することにより、改めて映画館で映画を鑑賞する意義を見出した人間だったりします。

ただ、ボクが大好きなように、共に暮らす3名の子どもたちも大好きですし、妻さんも大好きなのですが、家族全員で映画館に行ったことがありませんでした。

これまでボクと長男くん&次男くん、ボクと子どもたちといった組み合わせや、妻さんと長男くんなどの組み合わせはあったものの、家族揃っての映画鑑賞は初めての機会。

ところが今回、『映画ドラえもん のび太とそら理想郷ユートピア』はそれを実現してくれたわけです。

まずは、そんな機会を提供してくれた作品に感謝をしつつ、ネタバレなしの感想を書いていこうと思います。

これから映画を鑑賞したいと思っている方や鑑賞した方など、『映画ドラえもん のび太とそら理想郷ユートピア』に想いを馳せた方は読んでいただき、コメントでも各種ソーシャルメディアでも構いません。感想いただけるとうれしいです。

感想戦

脚本によって引き上げられるドラえもん映画の魅力

まず、今回の映画ドラえもんの脚本は手がけるのは古沢良太さん (@kosawaryota)。

最近のドラえもん映画は脚本家に焦点が当たることも増えてきており、ただの子ども向けのアニメ映画の範疇を飛び越えつつあります。

過去に2019年に公開された『映画ドラえもん のび太の月面探査記』では、直木賞作家である辻村深月さんが脚本が書かれて話題となりました。

この辺りから映画ドラえもんは、「過去に子どもだった人が楽しめる作品」ではなく、「過去に子どもだった人だからこそ楽しめる」作品へと引き上がった印象を持っています。

今回の作品も、その引き上げられた作品をさらに押し上げる力を持った作品で、映画の冒頭から結末までの展開を味わい続けることができました。

古沢さんの手がける脚本で制作されている作品、知らず知らずに楽しんでいる人も多いのではないでしょうか。我が家でいえば、妻さんは『コンフィデンスマンJP』シリーズが大好きですし、子どもたちは子どもたちで『GAMBA ガンバと仲間たち(2015)の脚本も書いています。

今回の映画ドラえもんでも古沢節がキッチリと乗っており、コンフィデンスマンJPでふんだんに張られる伏線と回収やGAMBAで描かれた冒険譚で扱われる勇気と誰かの犠牲による心苦しさといった感情をかき乱される描写など、論理と情動の狭間を行ったり来たりが心地いい

やっぱり、脚本次第によって作品へと抱く感情がグッと引き上がることを、今回の作品により改めて実感することができました。

“パーフェクト(完璧さ)”とは何か

映画内で語れるテーマは理想や完璧といった誰の基準でみるかによって評価の変わってしまう、一定のようでいて不定なもの。

ご存知の通り、野比のび太は勉強もできなければ運動もダメ。得意なことといえば、あやとりと射的で、そこには何の脈絡もありません。しかし、映画内ではこの二つを登場させられており、のび太の魅力を描写も作品を彩る大切な要因となっている点には注目したいところ。

のび太が出来杉から聞かされたユートピアを探すと決心するところから物語がはじまり、いつものメンバーとドラえもんを加えて探し、ついに遭遇します。

訪問当初には「完璧になれる」「理想の自分になれる」ことに興奮し、それまでに抱いていた「何もできない自分」へのコンプレックスを解消するのだと意気込むものの、この理想郷で過ごす中で、のび太は「理想とは何か」「完璧とは何か」と自らに問いかけ、体験と実感を合わせながら「自分なりの理想や完璧」に解を出そうと必死に食らいつく様子に胸が熱くなります。

ボクは兼ねてからのび太に向けて否定的な立場をとっているのですが、それはのび太がダメなところを見てしまうのは、自分のダメなところは直視するのと同じような苦しさがあるから。

だから、画面上に映し出されるのび太のダメなところをジャイアンやスネ夫と一緒になってバカにし、優越感に浸ることで自尊心を保とうとしてきたわけです。

そんな自分よりも劣る存在を見出すことで優越感を抱いたとて、自分が救われるわけでもなければ自己肯定感が上がるわけでもありません。ただただ、娯楽として他人を嘲笑うことによって自らの存在意義を把握したいだけ。

今回の作品では、自分を下落させないための存在であるのび太が、コンプレックスを打破するためにパーフェクトさを追い求め、そこに絶望し、別の角度から希望を見出す過程を追体験することによって「理想」や「完璧」の底浅さみたいなものに気づくことができるようになっています。

「理想郷」と「ホワイト革命」

劇中内での舞台となる理想郷は、パーフェクトの裏面である不完全さや半端さ、杜撰なものをコンプレックスに置き換え、それを排除する箱庭のこと。

そもそも理想郷をつくろうとする、その思考や思想自体がコンプレックスに塗れている人間が抱く欲望の表れだといえ、実際にこの理想郷を構築している人物も根本的にはコンプレックスの塊なのであろうことが徐々に明らかになっていきます。

引いていえば、その人物は箱庭における神なわけですが、神が人の前に現れることはしません。その代わり、神の代弁者として三つの分野を理想郷の基盤と定義し、それらに人格のようなものをもたせて箱庭内で暮らす人々へ方向性を指し示す指導者として立たせます。

この理想郷では、先述した三賢人(科学、政治、文化芸術)の示す方向通りに物事が進み、醜い人間の欲望みたいなものは影すら見せません。争いもなければ誹謗もない、一見すると安心と安全が共存する世界。

これは岡田斗司夫さんのいう「ホワイト化する社会」の行き着く先であり、我々が現実世界でも体験していることそのものだといえます。

1970年代にはタバコが街中で吸われることも当然でしたが、90年代に入り分煙が進み、今では喫煙自体が悪であるかのような風潮すらあります。

80年代までテレビで扱われてきたエログロみたいなものは90年代に入ると影を潜め、2000年代にはコンプライアンスの名の下に消え失せています。

スシローペロペロ事件として大きく騒動になった件についても、少し前のバカッター事案では文脈は「そんなことをする店員のことは許せない」だったのにも関わらず、今回のペロペロ事案では運営会社でもなければ店舗でもなく、客が対象になっています。

つまり、ボクたちの社会はそういった社会的な汚れみたいなものを排除し、キレイな社会を実現しようと自浄作用を働かせてきたわけですが、今回の映画で扱われている理想郷やパーフェクトな存在とは、そういった清浄さを表現していると言えるでしょう。

ただ、そういったホワイトな社会が果たして過ごしやすいのか、人間の魅力は凹凸にあるのではないか。そうやって真っ白で平らな世界は、本当に望むべき世界なのか。

そんなことを訴えかけてくるストーリーになっていたのだろうと思う次第です。

おわりに

劇中、友人たちが「完璧な存在」になっていく様子に、それまでの感情を全否定されるような心持ちになったのび太が徐々に絶望していく様子を目の当たりにします。

その時、隣で号泣している長男くん(9歳)の姿を横目で見て、我慢できずに泣いてしまいました。

彼は3歳の頃に『のび太の恐竜』を見て、ピー助との別れを見て涙を流していたような人間です。

そんな彼の姿を見せられて、我慢できようがありません。

もう、劇中の感動もそうですが、誰よりも隣で感動し、悔しがって、喜んでいる彼の姿を見れたこと。これだけでも映画を見に行っただけの甲斐があるといえます。

ぜひ、まだの方は鑑賞されることをオススメいたしますです。
ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo


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