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とある映画作品を鑑賞したことによって「よい作品とは何か」を知ることができた

どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

映画が好きなんですよね。映画館で鑑賞することはもちろん、自宅で動画配信サービスを利用して鑑賞することもたくさんあり、年間で何本の映画を鑑賞しているのかといえば、少なくとも50本から100本の間で鑑賞しているでしょう。

鑑賞することが好きな人はもっと多くの本数を見ているでしょうから、「いや、少ないね」なんて言われるかもしれませんが、まったく鑑賞しない人や年間で1本見れば十分だと思っている人からすると「お、多いね」なんて感想になるのかもしれません。

それらの評価は正直なところどうでもよくて、ぼくは映画が好きなのです。

先日、とある映画作品に出会ったのですが、そこで良作と駄作について考える機会を得ることができたのです。今回の記事では、その作品名を書くこともしませんし、内容を書くこともしません。ただ、文末に有料部分として正直な感想を記載したいと思いますので興味がある方は覗いてみてください。

では、雑談にお付き合いください。

映画を評価する際の基準

正直、映画ってB級と呼ばれる作品であっても十分に楽しむことができるんですよ。B級と格付けされていたとしても、作品を制作するって態度に尊重心を抱いていることもありますが、考え込まれて制作されている作品には惹かれるポイントがいくつも散りばめられているものです。

ただ、一般的に映画を評価しようとすると、客観的な技術的要素と主観的な感情的要素の複雑な組み合わせから成り立つものでしょう。

技術的な面では、脚本、演出、演技、映像美学などが基本的な柱となりますよね。脚本は物語の骨格であり、独創性、対話の自然さ、キャラクターの深み、そして物語の流れをスムーズにする伏線の設定などが評価されますし、演出は、監督のビジョンと技術が映画の全体的な調和をどう生み出しているかを示します。各シーンでのトーン設定、俳優への指導、視覚的な意味での見せ方、そしてテンポ感といったことが映画内容に入り込めるかどうかの分水嶺になることも少なくありません。

演技についてはわからない部分がたくさんあるのですが、考えていることはあります。それは、観客がキャラクターの抱く感情や表情といった身体性や精神性に共感できるかどうかにかかってくるのではないでしょうか。つまり、演技の評価をするのに必要なことは実在性を持たせられるかどうかといった説得力にあると言えます。

映像も大事です。撮影技術、色彩の使い方、編集の流れ、特殊効果の質など、映画の視覚的な面をどれだけ魅力的にしているかを評価する基準となるはずで、ただドローンで撮影すればいいってもんではないことは明白でしょう。

このほかにも評価すべき事柄はありますが、映画の評価においては、これらの技術的な要素と感情的な要素のバランスが重要だと言えます。技術的に優れた映画であっても、感情的に観客に響かなければ、その価値は半減しますからね。

逆に、技術的な欠陥があっても、強い感情的な共感を呼び起こす映画は高く評価することだってできます。最終的に、映画の評価は、これらの要素がどのように組み合わさって一つの説得力のある全体を作り上げているかにかかっていて、観客が映画から得る満足感は、これらの要素がどれだけうまく融合しているかに直接的に関連していると言えるのではないでしょうか。

ここまでが、ぼくの映画を評価する上での基準となります。が、簡単にいうと「他人に薦められる映画」か「他人を絶対に鑑賞させたいと思える映画」か「他人に行くことを薦めない映画」といった三点の選択に分けることで簡易化していますので、この見方で十分だろうとも思うのです。

良作と駄作の境目

次に、今回、とある作品に出会ったことによって考えることになった点に触れていきます。映画を評価する上で良作と駄作の境界線についてです。

上で触れてきたように、映画に没入できたり登場人物の感情に目一杯寄り添いたくなるような感情的な共鳴と、脚本や演技、撮影や演出など技術的な完成度のバランスによって映画作品を評価することはできるわけですが、それを良作か駄作かと判別するためにはどうしたらいいのでしょう。

これまでに世の中に出され、アカデミー賞などの賞レースにおいて評価される良作は、緻密な脚本、巧みな演出、魅力的な演技、そして視覚的な美しさを兼ね備えているからこそ評価され、見事に賞を獲得しているのだろうことはわかります。実際、何かしらの賞を獲得した作品を鑑賞することによって上記の評価基準が非常に高くなることを、ぼくですら実感するのですから当然でしょう。

映画を構成するあらゆる要素が同調し、観客に深い感情的な体験を提供することができるからこそ良質な作品と評価されるのです。

一方で、駄作とされる映画は何がどうなっているのでしょうか。

確実に言えるのは、上記してきた要素があらゆるところで不調和となっているのこと。あまりにも不調さがすぎるがために、観客にとって満足のいく体験を提供できないのです。

脚本が陳腐で次の展開や映画の結末が予測可能であったり、キャラクターが短絡的で一次元的な表現しかされていないがために共感を呼び起こせないこともあれば、演技が過剰だったり技術不足によって見劣りしていたりすることもあります。

また、映像や編集が雑で、物語の流れを妨げることもあります。手ブレを演出ではなく地でいく映像を見せられた際には、いくら物語を丁寧に描いていようとも邪魔をしてしまいますし、飛ばす必要のないドローンでの撮影も、製作者側の自己満足としか思えないのです。これらの欠陥は、映画が感情的な共鳴を生み出す能力を損なわせてしまいますし、結果として観客の満足度を下げる原因となることから、駄作には駄作になるだけの理由が存在するのでしょう。

つまり、良作と駄作の境界線は、単に技術的な要素の有無だけでなく、それらがどのように組み合わさって観客に感情的な反応を引き出すかによっても決まるのであろうことがわかります。

結局のところ、良作と駄作の境界線は、映画が観客の心にどのような印象を残すかによって引かれ、映画の評価は複雑で主観的な要素が絡み合っており、単純な良し悪しで測ることはできないものの、駄作は駄作だと評価されるべきなのであろうことはわかります。

おわりに

とある作品に出会ったことで、映画鑑賞について考察する機会をもらえたのですから、非常に良い出会いだったのだと理解しています。

無論、だからと言って、その作品を手放しで褒めるわけにはいきません。なんていうか、ものすごい不愉快だったんですよね。映画ってのは何かしらのメッセージ性を込めた作品ですし、その作品からもメッセージ性を受け取ることができたのですが、非常にカルトじみていて陳腐なものに成り下がってしまっていたんですよね。

本来の伝えたいことを、ただただ感情で押し切ろうとしているだけで、鑑賞後に「不愉快」になった作品はぼく史上でも稀なことでしたので、そういう意味では記憶に残る作品となってしまいました。その作品については文末に有料部分として記述することにしますので、興味がある方は覗いてみてください。

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)


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