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僕のあだ名

先日、Twitterで澤山大輔さんが「#いいねした人に今すぐあだ名をつける」というハッシュタグ企画に乗っかっていたので、早速いいねをつけてあだ名をつけてもらいました。

澤山大輔さんのことをご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、澤山さんはTwitterアカウントにも記載されているように「編集者」です。

主にサッカーの記事を書かれていたライターから、スポナビやライブドアを経て、現在はVIctoryというスポーツメディアのプロデューサーとして活躍をされている方なんですね。

ちなみになんですが、すごく個人的なことを書かせてもらうと、僕は2011年頃から数年続いたメルマガブームに乗っかって、複数のメルマガに登録し、読み漁っていました。

茂木健一郎さんをはじめ、ホリエモンこと堀江貴文さん、現在はFC今治のオーナーをされている岡田武史さんのメルマガや津田大介さん、高城剛さんのメルマガなんかも読んでました。

当時からのユーザーであればご存知だとは思いますが、震災当時、Twitterはサーバーダウンを起こさずにいたことによって、情報のライフラインとして機能していたのは有名な話です。

僕も別に何をするわけでもなかったのですが、Twitterユーザーとして、その流れに身を任せて乗っかり、楽しんでいたわけですが、そこから多くの方々の発信する内容に触れる機会が格段に増えたのを覚えています。

その中で、元々サッカーが好きだったこともあり、サッカー系の記事を読んでいたのですが、小澤一郎さんの文章が好きだったこともあり、彼のメルマガにも登録していたのですが、その編集者が澤山さんだったんですよね。

なので、僕は遠く遠くあまりにも遠いのですが、澤山さんにはお世話になっていた過去があります。 笑

僕はそう理解しています 笑

文章表現もアートだ

いや、文章を読んで「いいな」とか「確かになぁ」とか「うーん」とか唸ることってありますよね。少なくとも僕はあるのですが、それを書ける人も素晴らしいと思いますし、編集をしている人も素晴らしいと感じています。

素晴らしい文章というのは価値がある、というのは世の中に文豪と呼ばれる偉人たちが存在することによって証明されているわけですが、アートにも近いものがありますよね。

例えば、毎年「ノーベル文学賞を...!」と期待され続けている村上春樹さんは、一節だけ取り上げてもその素晴らしさが身に沁みるぐらいに言葉の使い方や文字の配列が美しいものです。

忘れたいものは絶対に忘れられないんです。(『沈黙』から)

つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通り過ぎるというのは大変むずかしいことなんだ。(『ノルウェイの森』から)

起こってしまったことというのは割れて粉々になったお皿と同じだ。どんなに手を尽くしても、それは元どおりにはならない。(『海辺のカフカ』から)

あとは糸井重里さんもステキな言葉を紡ぐ方で大好きなんですが、中でも当時の僕でも衝撃的だったコピーはもののけ姫です。

生きろ。(『もののけ姫』から)

もちろん、他にもMOTHERとか手掛けられてたりするし、「あ、これも糸井さんなの?」というコピーが沢山ありますので、ぜひ、下のまとめサイトにとんでって楽しんでもらいたいです。

僕がつけられたあだ名

ここまでは澤山さんとの(勝手に想起している)関係と、言葉や文章についての私見を長々と述べてきたわけですが、その理由は一つしかありません。

澤山さんからつけられたあだ名もアートだということであり、それはつまり、僕のあだ名もアートであるということ。それに尽きるのです。

さぁ、つけられたあだ名を見てみましょう。

僕がつけられたあだ名はこれだ!




ズバッときましたね、これは。

確かにね、確かに。

僕は「遠藤」というありきたりな苗字と「涼介」という平平な名前とを組み合わせで33年、確かに生きてきました。

覚えられづらいんですよ。普通すぎて。

だから名前以外のことで覚えてもらうしかないからなのか、小さい頃から落ち着きがないと言われ続けてきました。

結果、それは名前というハードルを乗り越えるために起こし続けてきた行動なのかもしれない。そう思えました。

これからも、名前のハードルを超え続けていきますよ!

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!