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やっぱり、SDGsが苦手って話。

どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

これまでも複数回にわたって「SDGsって日本でしか言ってないよね」とか「大事なことなんだろうとは思うけど懐疑的なんだよね」って話を書いてきました。

それが改善されることはこの3、4年でまったくなく「何年経っても苦手だなぁ…」としか思っていなかったものの、一旦、整理してみようってことでカタカタとタイプしはじめた次第です。


個人の意識は大事だけど個人戦じゃない

貧困をなくそう!飢餓なんてもってのほか!教育の機会やジェンダーの平等を確保しよう!など、17の目標を世界中の国々が共同で取り組むものとして定め、2030年までの達成を目指すもの。

これが、いわゆるSDGsの説明ですが、最終的には「未来に責任を持った行動をとっていこう!」ってことなんだと理解しています。

ぼくも大事だとは思っていますし、大切なことを目指しているってこともわかっています。納得だってしていますから、全然、否定的な見方をしているわけではないのです。

ただ、一点。
「個人戦じゃねえだろ」とは思っているのですよ。

「一人ひとりの行動を…」みたいに語られる場面や、それを押し付けてくるかのような言動に対しての違和感というか納得感のなさがすごいんですよ。ええ。

個々で未来に責任を持つための選択をする、行動をするって部分には納得していますが、個人で足掻いたところでどうにかなる問題なのかよって。

そもそも、そうやって声高に声を出すことができるって時点で、そうできない人たちとの差分があり、それを享受できている(豊かである)ことを無視してるんじゃないのだろうかって。

何より、個人の問題にすり替えてしまうと時には問題を覆い隠してしまう危険性すらありますから、その点に向けて随分と否定的な立場ですね。

たとえば、海洋プラスチックの問題を解消するために日本の海岸をきれいにしたり、プラスチック製品を使わないようにしようとする声がけがありますが、中国とかインドネシアの発生させてる量からしたら誤差なわけです。

【環境省】海洋プラスチック問題について(平成30年)_p3

統計的には上位5カ国で全体の60%で、いくら日本の海洋プラスチックを減らすようにしたとて、まずはこれらの国から出るゴミを止めなきゃダメでしょって話なんですが、これらの国に日本企業が何かしらの製造工程を発注しているってことも考える必要があります。

直接的には出していないのかもしれないけれど、間接的には大いに関係があるって状態になった時、個人の意識や行動を…って声高にいうのはわかりますが、そうなると消費行動に金額として跳ね返ってくるよって点も踏まえる必要があります。

環境問題だけではありませんが、少なくとも、我々の生活はいろいろなことの総和となっている以上、何か一つだけを解決しようとしたとて様々な要因が絡まり合っていることを理解していった方がいいのではないかってことなのです。

個人の視点でなく全体の視点で

「じゃー、個人の視点でいくらがんばったって意味がないっていうのか!」と怒られたことがあるのですが、全体的にみたら誤差にもならないんじゃないですかってことなんです。

以下で、SDGs的な個人の取り組みに向けて、客観的に指摘できることを考えてみます。

効果の限界
個人のエコ活動やリサイクルなどの取り組みは、全体の環境問題や社会的な課題に対する解決策としては微々たるものである場合が多いこと。上記した通り、個人がプラスチックの使用を減らしても、全体のプラスチック廃棄物の削減にはほとんど影響を与えない可能性がありますよね。

構造的な問題の覆い隠し
特にぼくが問題だと考えているのが、個人の行動に焦点を当てることで、産業や政府などの構造的な問題が覆い隠されること。

たとえば、エネルギー効率の低い製造プロセスや不適切な廃棄物処理など、企業や団体などのより大きな影響を持つ問題を個人の行動や意識へ転換することによって覆い隠されてしまうんじゃないかって懸念があります。

個人責任の過剰な重視
SDGsの達成は、個人がそれぞれに未来への責任を認識することは大事だろうとは思いますが、それだけではなく、企業、政府、国際組織など多岐にわたる利害関係者との共同での解決に向けた取り組みです。

それをあまりにも個人に対して圧を高めて強制し合うような状況になると、上記したような構造的な問題を見えなくしてしまうといった重要な側面が見落とされる危険性があるといえます。

教育の方向性
最近は学校教育の現場でSDGsに対する意識を授業等で取り組んでいますが、彼らに個人行動に偏った伝え方をすると、より広い視野や深い理解が欠如する可能性があります。

世の中には社会的、経済的、政治的な行動によって維持されている側面が大いにあり、それによって変革も起こせるわけですから、それらにも焦点を当てた伝え方をしなければならないはずです。

社会的な不平等
何より、すべての個人が同じようにSDGsに貢献できるわけではないって前提を忘れてはいけません。

経済的な余裕や時間、教育などの要素が個人の取り組みに大きく影響するため、一部の裕福で余裕のある人々にしか取り組めないものになる可能性があるわけで、取り組めている人たちはその自覚を持ってもいいのではないでしょうか。

企業側の対応は割に合わないんじゃ…

機運として高まっていた時期がありますが、最近は下火になっていたり、SDGsウォッシングのような問題も散見されるようになってきましたし、何よりもバッジをつけていればいいのかって問題も徐々に浮かび上がってきているような気配がプンプンしています。

ただ、一生活者として未来に責任を負うことに何の抵抗もありませんが、日常的な生活を送るだけで精一杯であることにも触れておきたいのです。

SDGsでもESGでもいいですが、とにかく環境を大事に、人を大事に、ガバナンスを利かせて…みたいなことをやろうとすればするほど、企業はビジネスモデルの転換や製造工程の見直しを図る必要があります。

これ、大企業でも中小企業でも結構な課題なわけです。重たい。これまでの金額と同等で対応しろって言われても無理なんですよ。

そういった動きが取りやすくなるように、国や自治体が補助金や助成金を出していますから、取り組むこと自体は可能でしょう。しかし、それが企業の出す製品やサービスにとっての付加価値になってしまうことも考慮する必要があります。

洋服で、完全に海洋プラスチックも利用しない、環境にいい素材や工程で製造されたものがあったとしたら、それは確実に金額が高くなります。それだけ製造工程が複雑で、希少性の高い素材を利用しているのだから当然でしょう。

ぼくはそれを買うのかというと買いません。

環境よりも財布にやさしい方が短期的なものの見方だと理解しながらも優先されます。

そうなってくると金銭と気持ちに余裕のある人向けの製品やサービスの展開っていう企業にとっての付加価値をつけるための要素として使う方が健全であって、それを享受できるのは経済的に余裕のある人たちって構図になっていきそうな気がしますが、それでいいんでしょうね。きっと。

おわりに

なんだか皮肉っぽい物言いをしながら書いてきましたが、別に取り繕っても仕方ありませんからね。

何度もいいますが、未来に向けた責任を自覚しようってことは十分に理解と納得もしていますが、個人の行動に焦点を当ててしまい、個人ががんばれば世界はよくなるんだ!って盲信することには反対って立場なだけなのです。

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)


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