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「結婚」と「夫婦(結婚)生活」には大きな違いある、というお話

今回も佐々木俊尚さんの朝キュレーションから。

阿部 珠恵さんとの対談の中で「結婚」について、恋愛観を含めて語られていて、それについてぼくなりに回答というか、現在のぼくが抱いている率直な気持ちはこちらです。

少女マンガで最も扱われるのは「恋愛⇒結婚」というフローだというのは当然の認識かなぁなんて思うわけですが、大した数ではないにしろ読んできた中で感じている少女マンガの王道パターンは以下の通りだと思います。

「片思い⇒(両思い)⇒紆余曲折⇒結婚」

この結婚というところがゴールとなっており、その後(結婚後)について扱われる作品もありますが、大抵はそこで終了。

だいたい、結婚がKGI(Key Goal Indicator: 最終目標達成指標)とされているところに結婚に対する誤解というか憧れが大きすぎる事態に陥っているのではないかと感じるわけです。

大方の思い描く結婚までは「恋愛⇒結婚」という認識ではないでしょうか。

それでいえば、結婚し、その瞬間に人生を完結させることができるのであれば、幸福の絶頂を極めた状態で安らかに眠ることができることになりますから素晴らしいことだと思います。

しかし、大半の人はそんなことがないわけで、それ以降も人生は続きますし、なんならAfter Marriage, After Marryこそが重要であり、本質的な課題の宝庫であるとぼくは思うわけです。

過去にはお見合いによって共同生活をし始める家庭も少なくなかったことを考えると、その過程が不幸であったかどうかはわからないどころか、むしろ恋愛結婚よりも『仲良くなること』が目的になる可能性が高く、それであればむしろ幸福度は高いのかもしれません。

今回のTweetにも記載していますが、『結婚』はイベントです。


タカラ社の人生ゲームをやったことがある人であれば誰しも理解できると思いますが、長く色々とある人生の中では結婚というのは一つのイベントでしかありません。

それは大学に進学した、会社に入社した、独立起業した、などといったイベントと大差のない一過性の『できごと』です。

そのイベントを通過したかどうかというのは『幸福度』に差が生じるかと言われれば考えづらくて、その後の営みの方が“有益な人生”とやらには必要なものではないでしょうか。

じゃー有益な人生ってなんだという話ですが、これは現時点でぼくが考えるもので、他の人に代用できるかといえば決してそんなことはないでしょう、ということを前提に書きます。

有益な人生は『"いま"の積み重ね』で成り立つものであり、刹那的な"いまこの瞬間"に対して向き合えるかどうかが大きなカギになるのではないか、とぼくは真剣に考えています。

上でも書きましたが、結婚というイベントを通り過ぎてからの生活の方が長いし、人生における比重としても圧倒的に大きいわけで、それを考えれば結婚というイベントで自らを完結させてしまうことほどもったいないことはありません。

そのイベントを終えた後の『夫婦(結婚)生活を持続・継続したいと思えるか』という点こそが本質的だと考えています。

どういうことかといえば、きつい言い方になりますが『結婚をした相手は共同生活を営む上で必要か否か』ということ。

正直、結婚をしたからといって、人生が終わる瞬間まで無理やりにその関係を押し通す理由なんて全くありません。

そうすることが好きなのであれば構いませんが、嫌なところばかりが目に入り、一緒の空間にいることが苦痛になっているにも関わらず『結婚したんだから』といって我慢をし続ける関係はどちらにとっても有益なものとはいえません。

繰り返しますが、結婚はあくまでもイベントであり、人生を通して貫き通すほどの価値があるものとは到底思えません。結婚はその瞬間に結婚をしたいと強く思い行動した結果です。しかし、それだけのことなのです。

友人の誕生日パーティーを開きたいと思ったから開いた、というのと行動レベルではなんら違いはありません。

形式的に見れば、紙の書類を一枚出すだけのものです。もっと根源的な話をすれば、別に当人たち同士が相互に認め合える関係を作れているのであれば、それでいいとぼくは思っています。

しかし、制度的に、その届け出を出すか否かによって身分的な差が生じていることも事実であり、それによって不利益を被ってしまうことも目に見えていますから、届け出した方が精神的にも、制度的にもスッキリとすることが可能、というのが実情ではないでしょうか。

では、夫婦(結婚)生活を持続・継続したいという意思は何によって変化があるのかといえば、いろんな要素があるでしょう。

対外的なこと(夫婦関係以外のこと)を言えば、子どもの存在があるでしょうし、見栄の張り合いということもあるかもしれません。

世間的な見え方を気にする、ということもあるかもしれませんし、そのポジション(〇〇の夫である、妻である)でいることがステータスだと感じていることもあるかもしれません。

すごく嫌ないい方で列挙しましたが、対外的なことといえば他にもあがってくるでしょうが、だいたいそんなところです。

対内的なこと(夫婦間のこと)でいえば、相互関係が最も大きいでしょう。それ以外にないといっても差し支えないともいえます。

結婚というステータスを維持する必要性を感じるかどうかは、結局、お互いに認め合える関係かどうかということが根本的な課題であり、問題であるということです。

自らの人生を振り返った時に、家族から耳の痛い話をされることもあった人は少なくないと思いますが、それを言われても許容できるというものではなく『受け入れたくなる』と思えているのであれば共に生活することも悪くないのではないでしょうか。

ぼくの話でいうと、現在ほどそれを実感することは過去にありませんでした。

もちろん、相互に納得のいかないこともあるでしょうし、認めたくないこともあるとは思いますが、基本的にぼくは彼女(#我が家の妻 )の意見を聞きたいと率直に思っていますし、聞くようになりました。

別に話題はなんだっていいのですが、くだらない雑談レベルの話から生活におけるクリティカルな話まで、とにかく意見を聞きたいと思っていますし、それができている今こそが夫婦(結婚)生活をつづけていたいと思えている時間になっています。

よく結婚相手のことを『パートナー』と表現する人がいたりしますよね。ぼくはそれを初めて見た時、すごくこそばゆいと言うかむず痒い感情を抱いていたのですが、いまでは思い切り同意できます。

夫婦関係というのはそもそもが対等な関係のはずであり、どちらが上とか下とかではないものです。

入ってくる給与が多いからとか、社会的な地位が高いからとか、学歴が高いからとか、という一部分だけを切り取った上で一緒にいるわけではないはず。(先ほどの書きましたが、それをステータスとして保持したいと思う人もいることは否定しません。)

お互いに特別な人間同士が生活をするわけではなく『普通に生活をする普通の人たち同士』が一緒に生活をするんですから、単純にお互いのことを認め合えているのかという点こそが結婚生活の醍醐味というか、良さなんじゃないかなぁというお話でした。

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