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Tryが『たのしい』と協働している時のお話

先日、家族で公園に出向いた時に次男が30~40cmほどの切株を模したイスから飛び降りるシーンからの着想した記事です。

この時、彼の表情は嬉々として自分がなにか特別な力を身につける瞬間を味わっているような充実感がありました。

『挑戦すること』を英語にするとchallengeやtryという単語が浮かんできますが、どちらを使うことが適切なのかは状況による、という話を聞いたことがあります。

誰かと競合し、争う場合にはchallenge

自らの可能性に挑む場合にはtryや take on 

といった具合に、少し異なるそうです。

今回の我が家の息子(次男)でいえば、割と家のソファからでも果敢に飛び降りているのを目にしていましたが、この場所には4つイスが設置してあり、彼はそれを連続で登り、飛んでいました。

ぼくが勧めたのはありますが、なんどもなんども着地に失敗したとしても立ち上がり、成功を繰り返すことで自尊心を獲得していくんだろうな、なんて思っていた次第です。

別に彼はぼくに言われたからやり始めたのは確かですが、仕方なくやっているのではなく、ぼくに促されたことから「確かにやりたいかも」と能動的に取り組んでいたわけです。

ぼくみたいな30歳を過ぎた大人とみられる人間でも、誰かに言われて気づき、行動を始めることはあるよなぁと思うこともなくはないじゃないですか。

他人からの評価って、案外に自分の的を得ている部分と的を外している部分が混在します。

そして、割と甘めの評価を下されることに甘んじてしまい、結果的に苦しんでしまうことも多々あります。

以前、目標設定に関してのお話を書きましたが、あまりにも高すぎる目標設定は自らの存在を見失ってしまいます。自分の責任で達成できる目標設定でないと、失敗した時に環境や他人のせいにしてしまうということです。

そんな目標設定の話を頭に入れながら次男の挑戦する様子を見ていると、彼は彼のできる範囲での挑戦を繰り返していることに気づきます。

もちろん、時にはやろうとしたことが現状の自分からは高すぎる目標だった場合、失敗もしてしまい、若干臆病になったりもします。

それでも、できることを増やしていこうとするその姿勢に、こちらが感化されないことはありません。

常に自分のできることやこなすことが増えていくことを嬉しく思うこと自体は、ぼくでも彼でも一緒です。

それは別に恥ずかしいことでもなんでもなくて、純粋に喜べばいいんです。

けど、大人になると『できて当然』というのが多くなり過ぎて純粋に喜べなくなったり、人に対して求めることが高くなったりしてしまう...。

子どもと生活をしていて(特に長男くんに対して)、ついつい求めることが高くなってしまうことがありますが、気づかぬうちに他の人にも同じような態度をとってしまっているんだろうな、と反省します。

挑戦、というとサッカー日本代表がコロンビアを破ったみたいなジャイアントキリングで、大きなゴリアテを相手に闘いを挑んでいく様を想像しがちですが、それが全てではありませんよね。

ぼくたちは日々、挑戦し続けています。

日々生活することは挑戦し続けることです。

昨日とは違う自分と、これから新しい"何か"を獲得できる可能性がある自分ではどちらにワクワクするのかといえば、もちろん後者です。

それを、たまたま公園で見ることになった息子のジャンプのたくましさと誇らしい彼の後ろ姿に勇気をもらうことができたことと、ワクワクに会いに行きたいなと思ったお話でした。

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