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母を信じることが心の支え

あふれる書籍や映像作品の中から、学びや気づきがほしい。そんな方のため、元県紙記者の木暮ライが、おすすめのコンテンツをプロット形式で紹介しています。

■犯罪者の家族を蔑む意識はどこから来るのか?
―和歌山カレー事件/林眞須美死刑囚長男「もう、逃げない」

2019年8月1日に出版されたノンフィクション作品です。「和歌山毒物混入カレー事件」の犯人として逮捕された林眞須美死刑囚の長男・浩次さん(事件当時小学5年・仮名)が初めて明かすいじめ、差別、性被害、婚約破棄に翻弄されながら、それでも母を信じ続ける苦悩と再生の日々を書籍化したものでした。


《 和歌山毒物混入カレー事件とは》
1998年7月25日の午後5時50分ごろ、和歌山市園部地域の夏祭りで、地域住民の作ったカレー鍋に毒物が投与され、カレーを食べた67人中、自治会長、副会長、小学生男児、女子高校生の4人が死亡し、63人が傷害などを負ったという事件。この毒物(ヒ素)の投与者が被告人林眞須美死刑囚とされる。
この事件は、死刑判決にも関わらず、死亡した4人の死因を立証する証拠は全くない、異常な判決書である。捜査機関、検察弁護人、裁判所も、死因には全く触れていない。カレー事件の争点は①犯行態様②動機③死因。検察、弁護人、裁判所、学者も①②に偏り、死因を避けている。安田好弘弁護団と生田暉雄弁護士は、死因を中心に検討を重ね、今も再審請求に取り組んでいる。

釣部人裕著「和歌山カレー事件再審請求書面を『解析』してみると・・・」より

《本書の流れ》
本書はこれまでの起承転結形式とは異なり、前半、林一家の事件前の出来事から判決に至るまでを時系列で紹介。中盤は家族のルーツ、後半は逮捕後の家族について長男の感情の起伏を丁寧に描かれている。真相解明のヒントにつながればと考え、本記事は中盤部分までのストーリーに多くを割いた。なお、文中と最終章は、参考文献としてほかの書籍や映像ドキュメンタリー作品と「木暮の焦点」として見解を挿入している。

■目覚めると殺人犯の家族になっていた

浩次さんの生活は、両親の逮捕の日を境に一変した。
1998年10月4日、日曜日。浩次さんは朝寝坊した。
「ママ(眞須美死刑囚)、逮捕されたんか」と尋ねた。恵美さん(長女・当時中学2年)は黙って頷いた。続けて「なんで健治(長男の父)も?」と尋ねた。
最初の逮捕は、7月に起きた「毒物混入カレー事件」の犯人としてではなく「保険金詐欺」で逮捕されたのだ。カレー事件での逮捕を前提とした「別件逮捕」であることを後で知ることになる。
林家は、長女と長男のほかに、次女の裕美さん(事件当時中学2年)、三女の愛美さん(事件当時4歳)がいる。恵美さんは2021年6月に37歳の若さで亡くなった。恵美さんの娘も亡くなっている。

■マスコミが助長した疑惑の目

逮捕の二か月半前、1998年7月25日、土曜日。
浩次さんは、ゲームボーイや釣りを楽しむどこにでもいるような小学生だった。
この日は午後6時から近所の空き地で町内会の夏祭りが行われることになっていたが、林一家はカラオケに出かけた。健治さんは夕方から仲間を集めて麻雀大会をやる予定だったが、急にメンバーの一人が来られなくなり、中止になってしまった。健治さんの趣味は麻雀、競輪、カラオケだった。麻雀は「三麻」の賭けマージャン。麻雀の騒音で近所に迷惑をかけたため、庭にプレハブの専用のマージャン専用部屋を建てたほどだ。カラオケは純粋に楽しみ、石原裕次郎の「ブランデーグラス」を好んで歌っていた。

健治さんは町内で浮いた存在だった。
和歌山市園部の家は中古で買ったが、前の住人が暴力団の幹部だったことから健治さんのことをヤクザだと思っている住民もいたようだ。粉らわしいことに、健治さんはヤクザ映画が好きで、いつもサングラスにステテコ姿だった。
面白く思っていない住民が多かっただろう。
なかでも「P」という飲食店のおやじさんと健治さんはソリが合わなかった。「P」の向かい側には健治さんのひいきの「Q」という同系統の飲食店がある。「P」の看板料理が健治さんの出身地の郷土料理で、健治が気に入らないことを「P」のおやじさんの耳に入ってしまい、恨まれてしまう。「P」の前に路駐している車に対し眞須美死刑囚が盛大にクラクションを鳴らすと、おやじさんと、店を手伝っていたその娘さんが飛び出してきてものすごい目でにらんだという。

眞須美死刑囚は保険会社で働いていた。浩次さんが見る限り、眞須美死刑囚はやりがいを感じながら職場の人と楽しく働いているようだった。しかし、事件後、週刊誌には社内でも評判が悪く、同僚たちからも嫌われていたと書かれた。

《木暮の焦点》
もし、浩次さんの話が事実なら、マスコミの印象操作になる。木暮も可能なら当時の保険会社の同僚に話を聞いてみたい。

カレーは早朝から、飲食店「P」の自宅ガレージでカレーライス担当の主婦たちによって調理された。事件のあった祭りの会場となる空き地は、「P」の自宅の隣だった。カレーの鍋2つ、おでんの鍋2つがそのまま午後4時ごろまでガレージに置かれ、主婦たちが交替で見張りをした。
毒物が混入された鍋は「P」の商売敵の「Q」が提供した鍋だった。この鍋には蓋がなかったため蓋の代わりにアルミホイルがかぶせられ、重しに段ボールがのせられていた。しかし、犯人はこの外しづらい鍋を選んだ。それは「Qの鍋でつくったカレーを食べた人が食中毒を起こした」という噂を流したかったからであろう。そう推理した記者たちが、「P」の自宅前に張り込んだときもあった。

ここで眞須美死刑囚の当日の行動を振り返る。眞須美死刑囚は糖尿病の検査の予約を入れていたため、午前中のカレー作りに参加しなかった。眞須美死刑囚は昼には帰宅し、昼食用のソーメンをゆでた。

Pのガレージでの時系列

その後、現場近くのお好み焼き屋でアルバイトしていた少年の証言によれば、眞須美死刑囚午後0時すぎに右手にピンク色の紙コップを持ってカレーの見張り当番に現れたという。しかし、裁判ではこの供述が提出されなかった。

参考:digTV「#11(供述調書 後編〜矛盾〜)」

警察の捜査では、午後0時から午後1時までの40分間、眞須美死刑囚が一人で鍋の見張りをしたことになっている。午後0時30分ごろ、裕美さんが5分ほど現れたと証言したが裁判で否定された。
警察の供述調書によると、目撃者は、ガレージの向かいの家に住んでいた女子高生で、午後0時30分ごろ1階のリビングの窓から、「林のおばちゃんがカレー鍋の蓋を取り、中をのぞき込んでいた。その後、鍋から白い湯気のようなものが上がった」ところを見たと証言している。
しかし後になって、「1階のリビングの窓」からではなく「2階の寝室の窓から」目撃したと証言を変えている。弁護団の調査によれば、一階のリビングの窓からは、ガレージの様子はうかがえない。

また、午後1時までの間に眞須美死刑囚がガレージを離れ、タオルとヒ素入りの紙コップを持ってきたとされるが、午後0時前からガレージ付近で休憩していた男性と女子高生は眞須美死刑囚がタオルを首に巻いていたと証言している以上、眞須美死刑囚がガレージを離れたという状況証拠に矛盾が生じる。仮に、女子高生が見たのは裕美さんならば、「ずっと一緒にカレー鍋の見張りをしていた」という、裁判で否定された眞須美死刑囚と裕美さんの主張が裏付けられる。

参考:digTV「#11(供述調書 後編〜矛盾〜)」

林家にあったヒ素は両親が逮捕された直後、家宅捜索4日目で台所のシンクの下から発見されたプラスティック容器に付着していたヒ素を指す。これは、黒いマジックで「白アリ駆除剤」と書かれていた。業界用語では「オモ」と呼ぶので、健治さんが書いたとは考えにくい。容器はビニール袋に入っていて、容器にもビニール袋にも、家族の指紋は出てこなかった。当時の家政婦も、シンク下の物入れにそんな容器は入っていなかったと証言している。このとき、捜査員は84人投入された。

《木暮の焦点》
眞須美死刑囚以外に真犯人がいるとすれば、「P」も候補にあがるはずだ。女子高生が、証言を覆した件ではそんな記憶違いをすること自体考えにくい。しかし、検察は、カレーづくりに参加しなかったことを、ほかの主婦に咎められ、眞須美死刑囚が激高して一人になったタイミングでヒ素を混入したと主張している。検察の主張はあまりにも短絡的すぎる。

林一家がカラオケに出かけたほぼ同時刻、祭り会場では異変が起きていた。食事が「P」の駐車場から祭りの会場へ運ばれたのは。午後4時ごろ。午後5時ごろからカレーライス担当の主婦たちが鍋を温め始めた。男性二人、町内会会長と副会長がカレーライスを食べ、異常を訴え始めた。食べた人が次々と吐き戻しているにも関わらず、カレーライスの配布は1時間ほど続いたという。

和歌山市消防局から保健所へ「食中毒発生の疑い」という一報が入る。当時、大阪を中心にO157が猛威をふるっていた。
日付が変わり、26日午前0時40分に町内会会長の死亡を確認。死因は「食中毒によるショック死」とされた。

その後、午前6時に患者の吐しゃ物から青酸化合物が検出され、県警は毒物混入事件として捜査本部を設置した。しかし、県警は青酸化合物が検出されたことを保健所に報告しなかった。そのため現場では、食中毒を想定した治療が行われていた。

林一家は、その後カラオケスナックをはしごして、夜中1時ごろに帰宅した。

午前7時台には町内会副会長と市立有功小学校の男子小学生、午前10時台には開智高校の女子高生も亡くなった。午前9時台にニュース速報が流れ、その日の夕方には食べ残しのカレーライスから青酸化合物が検出されたため、マスコミはこの事件を「青酸カレー事件」と呼び始めた。
同時に、世間がマスコミに対する不信感を助長させるきっかけとなった。

《木暮の焦点》
このとき、被害者の交友関係を捜査するべきだが、警察は一切行わなかった。この段階では被害者はヒ素ではなく、青酸化合物で亡くなったとされていた。ちなみに、このときの解剖結果と死亡診断書、死体検案書は裁判で提出されていない。弁護団の生田暉雄弁護士によると、ありえないという。

警察が、カレー鍋には青酸化合物だけでなく、ヒ素も混入されていたと発表したのは、事件から8日後の8月2日。近所の人から父が以前、ヒ素を取り扱うシロアリ駆除の仕事をしていたと聞きつけた記者たちが、家のインターフォンをら鳴らすようになった。「ヒ素なんて見たことない」と答えていたが、ヒ素を使って保険金詐欺をしていた両親は、その存在はどうしても隠したかった。嘘をついてまでヒ素の存在を隠し続けたため、心証を悪くしてしまった。さらに、母が夏祭りのカレーライス担当だったことや家族が誰も祭りに参加しなかったことが裏目となり、やがて「疑惑の夫婦」と呼ばれるようになった。

大手メディアの新米記者Rに気を許した健治さんは、保険金詐欺の手口を語ってしまう。一カ月後、Rは林家の自宅で食事をした複数の男性が、ヒ素中毒に陥っていたことをスクープする。このスクープをきっかけに林家の自宅の塀の外側に隙間なく脚立が並び、カメラマンたちから常に家の中をのぞかれる生活が始まった。

事件前、昔からの地主だという近所の高齢の女性(Sさん)が興味深い事件を話していた。
「林さん、あんたえらいところに引っ越してきたな。ここらは物騒なことが多いんやで。あんたら越してくる前に、この辺の飼い犬が何十匹も毒殺されているんよ。あんたの家の裏の畑に毒がまかれて、1年間使われんこともあったんよ」。
犬を毒殺した犯人と畑に毒をまいた犯人はいまだに判明していない。
事件の10年前には、祭り会場の近くで新聞配達をしていた女子高生が誰かに切られて殺される事件が発生していた。

1998年9月、当時同志社大学教授だった浅野健一さんは、過熱報道によって登校できなくなっている浩次さん兄弟のために、マスコミ各社へ取材自粛の要望書を提出し、両親に和歌山市教育委員会へそうだんするようにアドバイスした。両親はカレー事件への関与を認めることになるため、弁護士に頼ることを考えていなかったという。浅野さんは兄弟に群がる記者たちに「君たちはこういうことがやりたくて、マスコミに入ったのか?」と。

《木暮の焦点》
元記者の木暮にとって、はっとさせられる言葉である。

■眞須美死刑囚逮捕への布石となった保険金詐欺容疑 

事件から二カ月ちょっと経った1998年10月4日、両親の逮捕後、児童相談所に移送され、何度も眞須美死刑囚のいる和歌山東署と健治さんのいる和歌山西署へ連れて行かれたという。約一カ月経ってから児童養護施設X学園に入園する。
その後、眞須美死刑囚は複数の保険金詐欺や殺人未遂で再逮捕を繰り返され、12月9日にはカレー事件における「殺人容疑」と「殺人未遂容疑」で逮捕される。
カレー事件では直接証拠がなかったため、警察も検察も、眞須美死刑囚を自白に追い込む必要があった。
しかし、眞須美死刑囚は自白しなかった。検察は、健治さんを抱き込むため、離婚を勧めた。眞須美死刑囚には愛人がいたと言って揺さぶりをかけてきたという。「誰が相手にするんだ」と言っていたが内心はどうだったのだろうか。結局、健治さんは離婚に応じなかった。検事からは、保険金詐欺を見逃す条件として、眞須美死刑囚に殺されかけたと一筆書くようにと取引を持ちかけられた。そして、その20日後、12月29日に死亡保険金目当てで人にヒ素を飲ませたという内容の殺人未遂事件4件で起訴。裁判では、検察官がこの4件の他にも死亡保険金目当てで人にヒ素や睡眠薬を飲ませた「類似事実」が19件あったと主張している。

検察によると、眞須美死刑囚から最もヒ素や睡眠薬を盛られたとされたのは、家に出入りしていたIさんという男性。Iさんは高額の保険に入っていた。眞須美死刑囚はIさんを殺害して生命保険をだまし取ることを目的に「ヒ素入り牛丼」「ヒ素入り麻婆豆腐」「ヒ素入りうどん」を食べさせたと主張した。実際にIさんがケガをしたり、飲食後に入院するなど、両親に保険金が入る仕組みだった。Iさんも給付金を受け取っている。浩次さんもIさんに睡眠薬を飲ませる姿を目撃している。
Iさんは林家に居候していたが、事件後、警察官の寮に連れて行かれている。
公判が始まると、Iさんは、眞須美死刑囚が出した飲み物や食べ物を接種した後に体調不良を起こしたと証言した。
裁判所は、Iさんが被害者とされる2件と「ヒ素入り牛丼」「ヒ素入り麻婆豆腐」「ヒ素入りうどん」の3件を眞須美死刑囚による犯行と認定した。
その後、Iさんは保険金詐欺の関与を問われず、身内の警察関係者から警察官の制服をクリーニングする会社に就職した。

検察は眞須美死刑囚による殺人未遂の被害者に、健治さんも入っていた。実際に何度も重態に陥って入院し、多額の保険金をだまし取っていたので、裁判所は検察の主張を認めた。健治さんは二審で「自分で飲んだ」と証言している。

健治さんがシロアリ駆除業を営んでいたことからの知り合いで、市内の善光寺から園部に引っ越すまで家族ぐるみの付き合いをしていたTさんは、眞須美死刑囚が買ってきた酢豚と餃子を病室で食べ、激しく嘔吐した。9日後、Tさんは胃の部分切除手術を受けることになる。検察はTさんが眞須美死刑囚に殺されそうになった被害者として主張していたが、Tさんは検察が用意した眞須美死刑囚の愛人説などを一蹴。裁判所はTさんの件について、眞須美死刑囚による犯行と認定しなかった。

■偽の診断書

両親は1983(昭和58)年に結婚。当時、健治さんはシロアリ駆除の仕事をしており、最高で月収400万円ほどあった。
1985年に健治さんの会社の従業員が急死し、「事業保険(経営者が従業員にかける保険)」から多額の保険金を受け取ったことをきっかけに、両親は保険を「預金機能のある宝くじ」と考えるようになった。
健治さんは高度障害の保険をもらうため、Mさんを使って担当医に診断書を書かせた。Mさんは2千万円の保険給付金を受け取っている。Mさんはその後、健治さんと縁を切り、奥さんと離婚した。

保険金詐欺に不可欠なのが、医師の診断書だ。医師もバカではない。医師の協力なしでは、成立しないのだ。しかし、健治さんは、5、6人の医師に偽りの診断書を書かせていた。とくにK先生と親交が深かったという。

90年代前半に、健治さんはシロアリ駆除の仕事を廃業。表向きは、薬剤の値段が高騰したためと話していたが、すでに多額の保険金をだまし取るようになっていた。
1996年、眞須美死刑囚は自身の母の急性白血病で亡くなったときに受け取った1億4千万円の生命保険金をIさんの借金返済にあてている。これに関しては保険金目的ではないだろう。ほかにも車のローンなどに使ったが、健次さんとIさんが競輪などに使い込んでいたことが発覚した。眞須美死刑囚は激怒したという。そこで健治さんはヒ素を飲んで高度障害保険金をだまし取ると宣言。廃業後も自宅近くのガレージに保管していたヒ素を「コーヒー」「抹茶片栗」に混ぜて飲んだ。結果、1億5千万円の保険金を受け取った。
検察は、Iさんの目撃証言をもとに「ヒ素入りくず湯」を飲ませて殺そうとしたと主張。裁判所も眞須美死刑囚の犯行と認定した。
裁判所が認定した眞須美死刑囚による毒物混入事件は合計6件。Iさんに二度睡眠薬、三度ヒ素を、健治さんには一度ヒ素を盛ったということになっている。

よって裁判所は、「被告人にとってヒ素は発覚しない形で命を奪うことのできる手段として位置づけられていた」として眞須美死刑囚のカレー事件への関与を根拠づけた。

逮捕から一カ月後、健治さんは取り調べを終えた。2000年秋、和歌山地裁は、保険金詐欺と同未遂の罪に対して、懲役6年の判決を下した。そのまま刑が確定し、翌年1月に滋賀刑務所へ入所した。

《木暮の焦点》
事件というのは、得をした人間を疑うもの。Mさんは健治さんを恨んでいる可能性もあるが、何も得ていない。Tさんにとっては、眞須美死刑囚の犯行という検察の主張が認められず、何のメリットもない。一方、Iさんは検察に証言をすることで主張が認められ、警察関係のクリーニング屋に就職し、もっとも得をした人物と言える。

2002年12月、和歌山地裁は眞須美死刑囚に死刑判決を下した。決め手となったのは、「事件に使われたヒ素と、林家の台所にあったヒ素は同一である」という逮捕直後に行われたヒ素鑑定の結果だった。

その日から、兄弟は「殺人犯の子ども」から「死刑囚の子ども」となった。

■何不自由なく育った眞須美死刑囚

眞須美死刑囚は、学生時代から友人Wさん、Yさん、Zさんの4人と仲良くやってきたつもりだった。うちYさん、Zさんから恨まれていたようだ。調書にも2人の不満が記されてた。果たして、生活環境の違いによって、関係が悪化したのだろうか。Yさんは公判にも出廷し、眞須美死刑囚の人間性を批判した。Zさんも出廷予定だったが、その直前に急死した。38歳だった。

《木暮の焦点》
眞須美さんを恨む人物はいくらでもいるようだ。Zさんは出廷直前に亡くなている。何故このタイミングで亡くなったのか気になるところだ。

■孤独な少年時代を送った健治さん

健治さんは眞須美死刑囚とは対照的な人生を歩んできた。
1945年5月、香川県丸亀市生まれ。健治さんの父はフィリピン戦線にいたようだ。母親がいないため、父親の姉にあたる伯母に育てられた。伯母は倉敷市の水島駅で焼きイモを売って生計を立てていた。その父も逮捕歴がある。健治さんは中学を卒業すると、製麺所で働き始めた。数年後、刑務所から戻ってきた父親はN子と一緒になる。N子は父親につらくあたっていたが、そんな父親に嫌気がさした健治さんは、16歳で家出。兵庫県赤穂市の有年の山中で自転車がパンクし、一軒家の農家で修理してもらった。その間、おにぎりを握ってくれたそうだ。健治さんは「あのときのおにぎりが、人生で一番うまかった」と語っている。
自分の健康と引き換えにしてでも保険金が欲しいという健治さんの執念は、少年時代の貧困に対する恐怖心から芽生えなのだろうか。

大阪に移動後、伯母のいとこにあたる女性を頼った。神戸で暴力団とかかわりを持った健治さんを心配した伯母は和歌山に連れ戻した。このとき、健治さんは19歳だった。しばらくして賭場、つまり「(違法)カジノ」の店長を任されるようになる。ここで昼夜逆転の生活を送るうちに、自律神経失調症を発症し、入院。カタギの職場にいたときに知り合った若い女性の勧めで、25歳で熊本県益城町へ移り、女性の実家で家族とともに暮らすことになった。当時、女性は17歳だった。
しかし、健治さんは他の女性に目移りしてしまう。結婚したその女性を東京まで追いかけて、女性の近所に家を借りて会い続けた。その後、なぜか新潟の苗場スキー場近くの民宿で2年間働いた。次に、埼玉県の朝霞市へ移った。そこで健治さんは33歳で二度目の結婚。相手の女性は33歳だった。その女性は、結婚を約束していた男に裏切られ自殺を図ったことがあったため、彼女の両親が健治さんに300万円を差し出したという。そして新妻を連れて、再び和歌山に戻る。

■両親の出会いは「はた迷惑」だった


和歌山市内のアパートを借り、シロアリ駆除の仕事に就いた。健治さんは、市内の繁華街で毎晩のように飲み歩きナンパを繰り返した。

ある日、意気投合して出会った女性が眞須美死刑囚の友人のZさんだった。Zさんが友人たちの写真を健治さんに見せたところ、そこに写っていた当時看護師だった眞須美死刑囚だったのだ。
デートを重ね、妻に離婚を切り出す。そのとき妻のおなかの中には、妊娠9ヶ月の子どもがいた。
新潟に里帰りした妻は出産。約二カ月後、離婚届けに判を押した。驚いたことに、元妻は実家へは帰らず、和歌山に住み続けたという。

《木暮の焦点》
2度目の妻の子どもは、今どうしているだろうか。

1983年4月29日、両親は結婚式を挙げる。健治さんは37歳。眞須美死刑囚は21歳だった。3度目の結婚となる。

「根っからの犯罪者ではいない」というのが健治さんの持論だ。
そんな健治さんがなぜ保険金詐欺という犯罪に手を染めたのか。家族に大きな影響を及ぼすことを想像できなかったのか。浩次さんは、長い間、健治さんに聞けない問いだという。

■いまも別の亜ヒ酸を所持した真犯人が野放しになっている。

両親の逮捕後、兄弟に待っていたのは、壮絶な日々だった。浩次さんは児童養護施設で体罰と性被害に遭う。恵美さんに至っては推薦で入学した高校を早期に退学した。理由は、正門の前でマスコミが待ち伏せしていたため、不登校となったのと、周囲の余計な気遣いがあったためだ。恵美さんが進学した高校は、恵美さんの入学が決定した時点で保護者を集め、「今度、カレー事件の容疑者の子どもが入学してきますが、特別な目で見ないでください」と伝えていたという。これは学校側の責任回避に過ぎない。恵美さんは、大阪に出て働き始めた。はじめは公園で野宿をしたという。その後、どうやって住むところを探したのかは不明である。裕美さんの高校生活もつらいものがあったが、それでも担任の先生に恵まれ、退学せずに済んだ。浩次さんは、その後、レストラン、シロアリ駆除会社と転職を繰り返し、挙句の果てには婚約破棄を経験した。彼女は林眞須美の息子として受け入れたが、彼女の父に墓の場所を問われ、観念して事実を告白すると、「大事な娘を死刑囚の息子にやれるか!」と怒鳴られたそうだ。

交際相手の女性とは別れた。彼女の言う通り、「母親の子を断ち切って生きていくのか」「真須美さんの息子として生きていくのか」。浩次さんはどちらも選べないまま結論を先延ばしにする。悩み続けた末、浩次さんは結論を下す。

「林眞須美の息子」だと知られてしまうリスクを冒してまで、地元の和歌山で暮らしているのか。それはやはり母を断ち切ることができないからだ。しかし、確証はない。最近はX(旧ツイッター)もはじめた。すべて受け止める覚悟はできている。ぼくは「林眞澄美の息子」であることから、「もう逃げない」と決めたのだ。どうか、わずかな身内が母を信じ続けることだけは許していただきたい。それが僕にとって「心の支え」だからだ。

本文より

健治さんの出所から間もない2005年6月28日、大阪高裁は眞須美死刑囚の控訴を棄却した。浩次さんがシロアリ駆除会社で働いていた2009年4月、最高裁が眞須美死刑囚の上告を棄却。
しかし、支援の輪も広がりつつある。三か月後、弁護団は和歌山地裁に再審請求書を提出した。2024年2月時点で3度請求している。判決を引っくり返すには、有罪の決め手となったヒ素鑑定のやり直しが必要なのだ。
そこで、京都大学大学院工学研究科の河合潤教授が、検察側の鑑定書を読み、逮捕直後に大型放射光施設「スプリング8」で行われた鑑定に疑問を呈した。独自で鑑定したところ「林家にあったヒ素」と「事件に使われたヒ素」は「別物」だったのだ。検察側の鑑定を行った研究者を批判することになり、やりたがらない研究者も多いはず。それでも河合教授は、堂々と否定した。
すると、当初の鑑定を行った大学教授が、自分は検察からの依頼で、ヒ素の「起源」が「同一」かどうかの鑑定を行ったに過ぎないと反論した。つまり、当初の鑑定は、同時期に同じ中国の工場で、同じ原料を用いて生産されたヒ素だ、ということしか証明しなかったのである。弁護団の調査では、国内で少なくともドラム缶(50キロ入り)60個分は出回っており、一般家庭にも流通していることになる。よって、眞須美死刑囚が犯人ではあるとは言い難い。これについては、ABEMAでも検証番組が配信された。真犯人は今も野放しになっている。

                            出典:ABEMA

■木暮解説 真実だけ見つめよう

こうした真実に向き合うことなく、犯罪者の家族を蔑む意識はどこから来るのだろう。高橋ユキさんの「つけびの村」のように、世間は林一家の顛末を心のどこかで楽しんでいるのかもしれない。または、下記の記事でコメントを頂いた方の言うように日本人の根底に差別意識があるこそかもしれない。

日本はかつて、土農工商と順位づけた武家時代の階級社会の時代があった。木暮の親世代(60代以降)もこの観念の名残があり、触れないようにもしている。
このように、世間で無視されいる「犯罪者の家族」の置かれている立場についても、私たちはタブー視して直視しようとしない。そのタブーを木暮も破っていこう。
これはけっして、正義感で書いたのではない。木暮の大好きなドラマ「さすらい刑事旅情編」の中で今も忘れられない台詞がある。
「正義なんてものは曖昧なものですよ。でも真実は(揺るぎない)たった一つですから」
香取達夫刑事扮する三浦洋一さんの台詞だ。
名探偵コナンがアニメ化される前から、真実はいつも一つなのだ。当時のマスコミも真実だけ知ろうとしていれば、浅野さんに「君たちはこういうことがやりたくて、マスコミに入ったのか?」と言われなくて済んだはずだ。

偏見を持たず真実だけに向き合う人におすすめしたい書籍である。
誤りなどございましたら、コメントで対応致します。確認後、随時修正します。

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