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プレイリスト・パラドックス(自由選択された受動性)時代での生き方

みなさんはSpotifyやApple Musicなどを使っているだろうか?

私はSpotifyプレミアムユーザーであるし、アーティスト活動としてのSEMIOSISでは、主にテクノ音楽をメインとした音楽を配信している。

Spotifyの中では特に「プレイリスト」がすごく重宝される。実際にリスナーを獲得する手段は、ほぼプレイリストに主眼が置かれていると言っても良い。

集中したいならDeep Focus、運動中に聞きたいならWorkoutなど、いまの聞きたい状況や心情にあわせて数十曲のリストが選べる。気に入ればそれをフォローする。

もう少しこの話をすると、プレイリストに掲載されるにはSubmitという行為が必要だ。アーティスト側が楽曲をプレイリスター(プレイリスト作成者)にプレゼンテーションするのである。

そのときには、以下のような内容を”テキストで”記載する。こんな画面で。

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・楽曲のモチベーション(雰囲気や心情)
・楽曲の構成要素(楽器などのジャンル)
・楽曲にこめた説明(どういう経緯で作ったか)
・対象であろう文化圏(Christian,Latin,Asiaなどのジャンルがある)

音楽をつくる側でない人は少し驚くと思う。いま音楽配信プラットフォームは、アルゴリズムで聞きたい音楽を推測し、あなたにプレイリストでレコメンドしているのだ。

説明が長くなったが、実は本題は音楽論ではない。今までのことそのものをメタ的に捉える。すると、ある種のパラドックスが生まれると思ったのだ。それを「プレイリスト・パラドックス(自由選択された受動性)」と呼ぶことにする。

パラドックスとはそもそも何か?

パラドックスとは、以下のことがらを指す。Wikipediaありがとうございます。引用すると、

パラドックス(paradox)とは、正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。逆説、背理、逆理とも言われる。

難しい表現なので、そもそも見たくもない文章である。要は、一見すると正しそうだが、実は矛盾したことである。

プレイリスト・パラドックスについて

まず完全なる個人的な造語であることをお詫びする。そのうえで、このパラドックスについて仮説を立ててみる。

プレイリストとは、ある特定の状況や心情に合わせて数曲をプラットフォーム側が選び取り、リスナーにレコメンドするというものだ。

一見すると、落ち着きたいとき・アクティブなとき・集中したいときに合わせて自由に選択できるプレイリストは、リスナーに音楽への自由な選択権を与えたかのように思える。

ただ、よくよく考えてみれば、その自由選択したプレイリストは完全なる受動的な曲のリストである。一切、曲やアーティストは選んでいない。

あくまで状況や心情を自由選択しただけで、曲は完全に受動的に選択される。もっというと、”「聞かされる」自由の選択権”を得た、といえるのではないか?

「選ばないことを選ぶ」という世界観

この状況、世の中にありふれているのではないだろうか?

あなたが持っているもの、食べているもの、楽しんでいるもの。なぜそれを選んだのだろうか?少し考えてみてほしい。

持たされていないか?食べさせられていないか?楽しまされていないか?何を理由に、それを選び取ったのだろうか?

私達は手のひらですべてを調べることができ、受動的にものごとを捉えるようになって久しい。

YouTubeでも次に再生するものは、すでにおすすめされている。Netflixには、これを見ている人が98%見ていますという小さなテキストが出ている。

今やインフラ化しつつあるデジタルプラットフォーム上で自由選択されているものは、膨大なデータの裏付けでアルゴリズムが提示した内容を選んでいる、といってもいいだろう。

この「選ばないことを選ぶこと」は一種のパラドックスといえるし、これから当たり前になるだろう。

アフターデジタルにおけるプレイリスト・パラドックス

「アフターデジタル」という言葉がある。これはぜひクリエイティブに関わる方々は手にとってほしい書籍だ。

本書のタイトルにもなっているアフターデジタルとは、行動データを高頻度で取得できるモバイルデバイスやセンサーの普及に伴い、データ化できないオフライン行動がなくなって「オフラインがデジタル世界に包含される」世界のこと。

この世界のポイントは、「オンライン>オフライン」という話ではなく、そもそもオンライン・オフラインという言葉の垣根がなくなる世界になる、ということである。

Online Merges Offline(OMO)という言葉が出るのだが、Merge(=溶け合う)という表現がそれを意味していると思う。

その世界において、プレイリスト・パラドックスは高頻度かつ広範囲で起こりうるだろう。

この書籍でもある通り、すべてデータが取得できる世界で行動変容やサービスが決まるのであれば、それを享受するユーザーは果たして、物事を自由意志を持って選び取ったのだろうか?

選択された状況や感情に基づいて、あらゆる物事はプレイリスト的に推測され/提案される世界になると思う。

個性や人格はどこにあるのか。自分とは一体何なのだろうか?この世界のア・プリオリな”私”はどこから形成されるのだろうか?

プレイリスト・パラドックスと”ゴースト”

私が私であるすべてがデータに裏付けられた場合、プレイリスト・パラドックスから脱却できる術はなくなる。そして、そもそも脱却する必要があるのか?とさえ思ってしまう。

攻殻機動隊の中での有名な概念のひとつに、”ゴースト”という言葉がある。このストーリーでは”義体”と呼ぶ、体が機械化されたキャラクターたちが多く登場する。

ストーリーの全体で、すべての人間の構成要素が機械化・電子化された場合、人間と機械の境目は何か?というのが大きな問いとして投げかけられる。

体が機械化される未来は想像がつかないが、思考の根拠がアルゴリズム化されることはすでに起こっている。

攻殻機動隊で描かれる”ゴースト”が宿るのは、私たちのどの部分になるのか?

プレイリスト・パラドックスからの脱却

無理やりプレイリスト・パラドックスから抜け出ることは難しくなるだろう。いまはその過渡期と言える。

アフターデジタル的な世界になった場合、データがインフラ化される。もし脱却したい場合、インフラから外に出ていかねばならない。電気・ガスを使わず自給自足で無人島で暮らす、ようなことになるだろう。

私が私であるために必要なことは、プレイリスト・パラドックスからの部分脱却だと思う。ある部分だけを逃し、そこにゴーストを宿らせる。すべて脱却すると、人間社会と隔絶された状態になってしまう。

そして、その答えは”良き無駄”にあると考えている。一見、無駄と思われる行為だがよく見ると価値がある物事。データ化された社会から弾かれるであろう微細な/繊細な物事である。

これには社会の共感や理解を求められないため、完全独立した個の選択、その集合体であるコミュニティ形成。これこそが未来での”私”を形成することになると思う。

翻れば、なぜ今クリエイティブが重要視され始めているのか?そして、創ることがこんなにも注目を集めているのか。過渡期である今の社会が、そうさせている気がしてならない。

”私”である行為をみつける

コーヒー豆を育てて自分のオリジナルの豆から抽出された一杯を飲む。山を上り下りしたあとに地元のブルワリーでクラフトビールを飲む。みんなで火打ち石で起こした焚き火を囲んで料理をする。

そんな一見”無駄”に見える行為が、今や贅沢な時間を楽しんでいるように思えるのは私だけだろうか。

きっとこの先、こんな行為が”私”をつくることになるのであろう。すべてがデータで裏付けられる時代に、少しばかりの”良き無駄”を見つけて楽しむ。

映像クリエイターという職業の私は、”良き無駄”をクリエイティブに取り入れながら試行錯誤したりしている。その余白をとるために、”悪しき無駄”は徹底的に排除する。

レンズとボディ合わせて15kgもあるハリウッドの標準カメラをどうにか扱って、日々最高の映像を撮ろうとしていたりする。私は、私であるための所作を持っておきたいのだ。

あなたがクリエイターであろうとなかろうと、私である行為を見つけておくと良いと思う。きっとこの先、それが自分を表す唯一の事柄になるだろうから。

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