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自殺志願者のためのクスリ

はじめに


 予めお断りをしたいのだが、この一連の文章はエッセイではなく、論文口調になっているので、note閲覧諸氏は注意されたい。もともとnote投稿用に記したものではなく、個人的に大切なこととしての位置づけであり、読者受けはしないので、それも付記したい。

 この本を手に取ってくださっているあなたは、今現在の生活において何らかの苦痛を抱えていらっしゃるか、暇つぶしのために雑学を手に入れたいか、或いは、死を望むものが考え方を変える文章などあるわけないと冷笑気味にページを繰っていらっしゃるか、その辺りだろう。
 だが、ここには本当のことを書く。嘘など書かない。

 生命とは打ちっぱなしのロケットのようだ。
 とある男女が出会って、子供が生まれた。つまり、あなただ。あなたは幸せかもしれないし、そうでないかもしれない。優秀かもしれないし、そんな言葉を投げかけられたことがないかもしれない。それは分からない。
 人生は砲弾に似ていて。
 一旦ある角度で、ある加速度で、打ち上げられたら、その物体はどうなるか?
 物理学に造詣などなくても、お分かりいただけるだろう。初速度、打ち上げた角度に従って、物体は放物線を描き、着地する。これは最初の設定どおりのただ一点に着地し、目標地点から1mmもズレない。物理学が残酷な宣告をするのと同じく、生命も残酷な宣告を受ける。あなたは両親の遺伝と生育した環境で、今現在存在している。弾道計算と同じく、着地点、つまりあなたの社会的立場は、やはり1mmもズレない。
 遺伝と環境ですべて決まる――。
 そんな馬鹿な、と一笑に付すことができるのなら、あなたは楽観主義者か、神秘主義者のどちらかだろう。現実は残酷だ。
 あなたが裕福な家庭で育ち、何不自由なく学校でそれなりの成績を収め、恋人と青春を謳歌しながら医学部や法学部を卒業し、医者や弁護士になって安泰な人生を送るなら、この本は雑学で終わるだろう。
 だが、そうでなかったなら?
 ごく普通の人生で平凡でつまらないと嘆くのなら、まだマシで。
 底辺人生を送るしかない人生だったら、もう笑ってこの本を閉じることはできないはずだ。そして、その底辺人生で生か死かの踏み絵を前に苦悩しているなら?
 生きるべきか、死ぬべきか。どちらがマシだろうか。
 御託は並べない。本当のこと、少なくとも、私が自殺を企図し、その結果どうなって、どのような結論を得たのかは詳細に後述してあるので、参考にされたい。結論から言えば、自殺はとても人には勧められるシロモノではない。だが、生きるのを辞めたくて仕方なかったら、どうすればいいのか。耐えられない苦痛を前にどうすればいいのか。
 幸運なことに、この本には抜け道が記されている。この書籍はそのために存在している。そう、もう苦しまなくていい。打ち上げられた砲弾の着地点をズレさせるには、空中で少し力を加えればいいだけだ。そして、それは可能なのだ。

 信じる者は救われる、と聖書には記述されていて。
 本当に救われるかどうか私は知らないし、おそらく誰も統計など取っていないから、実際のところは分からない。救われるかもしれないし、そうでないかもしれない。
 ただ、この本は宗教とは全く関係ない。
 関係があるとすれば、哲学と心理学の知見である。そして踏み込んでいえば、哲学は思弁で成り立っているし、心理学は科学の末席に名を連ねる学問であるという曖昧なシロモノ。だが、私の武器はそれしかない。その文脈に沿って記述させていただく。
 私としては科学的根拠、つまりエビデンスに基づいて、実用的で再現性のある話をしたかった。だが、この本は実証によって成り立っていない。あくまで理詰めで書き記してある。この点、ご了承願いたい。先ほどの砲弾の話だが、軌道修正するために祈ってみるのも悪くはないが、できれば砲弾を銃で撃ちつけた方が確実に、着地点を「死」から逸らせる。ここで砲弾にどのようにして弾丸を当てるかの数式を明文化できれば良かったのだが、この書籍にその記述はない。思弁によって、砲弾の軌道修正は可能としか記せていない。これが現時点での私の限界である。
 また、欠点に近いこととして、この本はあなたの心理的な苦痛を回避するために書かれたものであって、現実的な問題、いわばあなたの死活問題を具体的に解決するためには存在していない。よくある人生相談の解決法を指南するものではない。生きるにあたって、苦悩はさまざまな形で存在するだろうが、数えきれないほどのシチュエーションに対して、その場合はああすればいい、とか、この場合はこうした方がいいと書くことは不可能だ。
 本書は人生の懊悩に対して、どのような心的態度を採るべきかについて書かれてある。幸せは自分の心が決める、とはよく使われるフレーズで、なるほどもっともなことではあるが、どうすればいいかについての解答ではない。確かに幸せはあなたの心が決めているだろう。だが、幸せでいるためにどうすればいいのか。そのアドバイスをするのが、この本の目的であり、徹頭徹尾、どのように現実に向き合うかについての心構えについて記されている。幸せになること、苦悩を回避することは、生きるにあたって、アルファでありオメガである。つまり基礎であり、応用であり、すべてですらある。    それは我々がもっとも関心を払うべき事柄なのだ。

■解法1

 死ねばすべて解決する、という命題について予め述べておきたい。これを履き違えてはいけない。はっきり言っておく。

『自殺は人生の諸問題を解決するためのソリューションではない』

 これは大切なことなので、まず頭に入れておいてほしい。
 たしかに死んでしまったら、もう悩む必要はない。悩むことすらできない。問題はすべて解決したかのように見える。しかし、それは問題を解いたことにはならない。ただ、厄介な宿題を視界から消しただけ、つまり課題を目の前から取り除いたに過ぎない。
 課題は消えてない。
 あなたが逃げただけで、課題は残っている。ただ、解くのを止めただけで、あなたは逃げおおせてはいない。死を指南する甘言に耳を貸してはいけない。それは誤魔化しであって、ミスリードだ。

 ここに一つの考え方がある。
自ら命を絶つことを思案するほど辛いのなら。
 すべての自分を破壊するより、一部の自分を“殺して”しまえば良くはないか。
 全部、消去するより、一部だけ消去した方がマシではないか。
 その観点から、本書は書かれている。
 何も失わず、窮地から脱出できればいいが、そんな解決法はないだろう。    何かを犠牲にしなければいけない。大切な自分を犠牲になどしたくないだろうが、全か無か、すべてを終わらせれば問題は解決するように、たしかに今 現在のあなたには見えるかもしれない。
 だが、はっきり言っておく。

『自殺は正解ではない』

 敵前逃亡を卑怯だというつもりは毛頭ないし、一時退却するのも悪くはない。
 だが、全滅しては意味がない。
 果てして、どうするべきか?
 自分の一部だけ“殺して”しまえばいい。今のあなたでは舞い込んできた不遇な運命に対抗できないのだから。別の言い方をすれば、自分の一部を“修正する”だけだ。
 表現は違えども、結局は同じこと。
 そんなに深刻にならないことだ。問題を解決するために自分を“変化させる”。
 進化論のダーウィンの言葉はご存じだろう。

『生き残るのは強い生き物ではなくて、環境に適応するために変化する生き物である』

 現実が変わらないのなら、あなたが変わればいいのだ。
 それは決して楽な決断ではないのも分かっている。
 今のあなたと、少し変化したあなたは同じ存在だろうか、という哲学的な問題を考えなくてはいけないからだ。
 あなたはあなたのまま存在したいだろう。すべての物体は今の状態を維持し続けるのは自明のことわりで。
 あなたもあなたのままでいられたらいいのに。
 だが、現実の問題に対処するためには、今のあなたでは無理だから。そのまま存在しても、あなたの苦しみが長引くだけなら。
 変わるしかない。

■解法2

 目の前のコップを動かすことはできない。
 現実は不動だ。あなたが思い煩っても、手や足を動かさなくてはコップという物体をどうにもできない。コップはその存在を主張し続けて、依然として、あなたの前でコップであり続けようとする。
 だが、コップを消すことは実は可能なのだ。もちろん、あなたは動かないままで。
 どうすればいいのか?
 
 世界の解釈を変えよう。
 現実は変えられない。しかし、現実は変えられる。
 矛盾しているようだが、これは真理で。
 簡単なことだが、目の前のコップはその形を維持し続ける。それを変えたければ、あなたがその物体をコップ扱いしなければよい。そうすれば、目の前のコップはただのガラスになる。もはやコップではない。円筒のガラス。材質がプラスチックなら、プラスチックの物体になる。
 この記述を馬鹿馬鹿しいとお考えだろうか? そんな論法は現実では通用しないとお考えだろうか?
 コップはコップじゃないか。そう思われるかもしれない。
 だが、コップは物質に還元すれば、ガラス、プラスチック、その他の物質に変化する。これは事実だ。解釈を変えれば、世界は変わる。
 あなたが見ていたのは、もはやコップではない。円筒の物質でしかない。
 コップはこの世界から消えた。あなたは動く必要もなかった。身動きできなくても、コップを消すことは可能だし、実際に存在もしてない。

『この世界は解釈こそすべて』

 現実の有様はそのままではなく、解釈を通して。
 ここで、あなたがくだらない、と思うのなら、あなたは変化していない。
 ダーウィンが種の起源で述べたように、あなたは進化してない。
 どうしてあなたが生きるのが死にたくなるくらい辛いなら、コップなんてちっぽけなものに拘るのだろうか。目の前のコップとあなたの幸せとどちらが大切か。
 自己欺瞞。そんな言葉も浮かぶかもしれない。
 あなたは自分を殺してでも楽になりたいと願っている、という前提でお話をさせていただいている。自己欺瞞、つまり自分を騙すことと、自分の命とどちらが大切で守るべきものか、どちらを重要だとお考えだろうか?
 コップなんかより、あなたの生命の方が比べ物にならないくらい大切ではないか。
 目の前の物体なんか、あなたが生きていなければ、どうでもいいものではないか。
 コップなど、あなたが自ら命を絶つ重大さに比べたら、些細なもので。そんなコップなど割れてしまっても、問題にすらならない。
 自分を騙しても、生命を失うよりマシであること。そして自分の認識を変化させることは、いずれ真実へと変わる。あなたは今までの問題に対する認識や反応を捨て、違う存在へと昇華する。それが適応であり、生き残るための唯一の選択肢だ。
 あなたの前に立ちはだかる問題の解釈を変える。それはあなたが脅威となるものと折り合いをつけて、適応的に対処するための進化であり、正に対する反は合となり、一段階上へとシフトする。精神的な化学変化。あなたは問題を克服して、大きな存在へと止揚する。以前の悩みは、もはや、あなたを苦しめることはない。
 あなたなら出来るはずだ。死ぬ勇気があれば何でもできる、という詭弁とは違う。辛い現実の解釈を変えるのは、自分の殻を破ること、違う自分へと変化すること、弱点に免疫を付けること。
 やるしかない。やらなければ、あなたは悩み事で殺されてしまうくらい追い詰められているはずなのだ。やるしかない。嫌々生きた方がマシなくらい、自らの命を断つことは惨めだから。たった1分にも満たない断末魔ではあるが、一生嫌々ながらも生きた方が幸せだ。実際体験すれば分かることであるが、自分が二度としたくないことは他の人には勧めたくない。自殺は止めておいた方がいい。理屈じゃない。言葉では説明できないが、止めておいた方がいい。
 ここで大事な一点を述べる。それは、ものの見方についてのことだが、

『物事をひねくれて考えてはいけない』

 ということだ。
 ありのままの事実を受け入れること。どうせ、とか、所詮、などと頭につけて修飾するのは止めよう。歪んだレンズで周囲を眺めて、その視覚情報をもとに行動するのなら、大抵怪我をしてしまう。
 素直に物事を解釈しよう。素直さって何だっけ? と迷うのなら、昔の子供時代の自分に戻ったつもりになって考えてみよう。
 子供の素晴らしさの一つは純粋に物事を見ることができることだ。大人になって、ある程度年齢を重ねると、この能力は失われてしまうことが多い。純朴に信じる心的態度。これはほとんどの大人が失ってしまう貴重な才能であり、能力なのだ。
 子供の頃のあなたに戻って、身の回りの物事を再解釈し直そう。あなたの色眼鏡を少し外して、さまざまな物事を改めて解釈できるようになれば、視界はもっとクッキリして、あなたは正しい道を歩むことができる。

■解法3

『世界は実は、人生の主人公たるあなたのものだ』

 世界はあなたを中心に回っている。これは傲慢でも何でもない。
 実際、この世からあなたが消えたのなら、世界は終わる。
 死んでしまえば、この世は消滅する。
 縁が切れたら、世界が存続しようがしまいが、あなたには無関係で。存在しないも同然だからだ。
 世界はあなたを中心に回っている。単なる子供じみたワガママではない。
 あなたがいるから、世界が存在するだけで。あなたがいなかったのなら、世界なんて、あなたに関係あるだろうか? いなかったのなら、悩み事は存在するのだろうか? あなたがいなかったら、そんなにも苦しいと思ったり、苦痛を感じたりするのだろうか?
 結局、あなたが存在するから、世界は存在すると知覚できる。
 そして、あなたは主人公だ。
 あなたを攻撃してくる人は、世界の影絵。背景みたいなモブでしかない。
 人間の悩み事は何かと問い続けたなら、一言で述べるなら、人間関係の悩みだけだ。
 他人がいるから、あなたは悩むのだ。

■解法4

『あなたは世界を意味づけ、物事に価値を与える唯一の存在だ』
 
 この言葉も吟味していただきたい。
 あなたが男性なら、美しくて可愛らしい女性に心を惹かれるだろうし、女性であるなら、格好良くて、あなたに優しく接してくる男性が気になるだろう。
 友人も同性であることが多くて。男性なら、友人は男性が多いだろうし、気心も分かるだろう。女性なら、同じように、友人は女性が多くて、価値観も似通っているし、理解もできる。
 あなたが世界を意味づけている唯一の存在だ。当たり前のことであるが、これは大切なことだ。あなたにとっての常識は、他人の非常識で。他人の常識は、あなたの非常識だ。
 同じ人間ではあるが、自分と他人の価値観や重視するものは、それぞれ違うし、何に重きを置くかも違う。あなたが優越感を感じていることは、たいてい他人にはどうでもよい。あなたが劣等感を感じていることは、たいてい他人は気にも留めない。
 このことは、あなたの経験からもご存じのはずである。あなたは世界に意味と価値を与えられる特権階級のそれであると同時に、どうでもいい平凡な人間だ。
 それは、あなたの近くの人々も同じだ。あなたが思い煩うことは、他の人にとってはどうでもいいこと。無関心ではなく、他の人があなたの立場なら、そんなことで悩んだりはしないということ。
 くよくよ気にしているのは、あなたぐらいのものさ。

■解法5

『物事は考え方次第だ』

 たとえば、あなたが失業して、職業の選択の幅がそれほどないとしよう。
 だが、いずれは働かなくてはいけない。
 限られた選択肢の中で、あなたはトイレの掃除を請け負ったとしよう。
 あなたはどう思うか?
 トイレ掃除を生業とするのは、社会の底辺だ。そう考える方もいるだろう。
 もっといい仕事をしたいと思うようになるかもしれない。自分の能力をすべて生かし切った仕事ではないとも思うかもしれない。
 それは事実かもしれないし、そうでないかもしれない。誰にも分からない。
 あなたが優秀であろうがなかろうが、トイレ掃除を平日は仕事として行わなければいけない、としよう。
 自分は惨めだ。トイレ掃除なんて、汚れ仕事だし、クリエイティブでもない。誰でもできる嫌な役回りだ。
 そう思ってもおかしくはない。あなたに職業を選択する権利があって、限りなく存在する候補の中から自分が生業として選択できるなら、真っ先に消去する選択かもしれない。
 だが、よく考えてみよう。
 トイレ掃除は惨めだとか、底辺の仕事だと決めつけている根拠はない。
 あなたが望んだ仕事ではないかもしれない。だが、どんな仕事でも社会の役に立つなら素晴らしいことだ、などとも勿論言わない。そんな言葉はレトリックだ。
 焦点は、惨めだと思っているのは、あなたの判断基準によるだけ。
 という事実だ。
 誰もトイレ掃除は惨めで、底辺で、つまらない仕事だ。
 などとは定義できない。
 一番そのことを意識して、忌避しているのは、実はあなただ。
 あなたは、この定義を変更できる。
 トイレを綺麗にする仕事は惨めでも、底辺でも、つまらない仕事でもない。
 あなたは自分の仕事に対して、どのようにも定義できる。素晴らしい仕事だ、とも定義できる。もちろん、そう定義しなくてもよい。素晴らしいとは大げさだが、捨てたものではない、くらいに定義してもいい。

『世界はあなたの意味付けで成り立っている』(解法4)

 からだ。
 繰り返しになるが、世界はただ存在しているだけで、それ自体は良くも悪くもない。
 それをどう考えるか、つまり世界は生きるに値する場所だ、と考えるか、この世は地獄だ、と考えるか、どちらが正しいのか誰も決められない。
 決めるのは、あなた自身だ。
 何故なら、世界はあなたの意味付け、解釈だけで定義されるからだ。アメリカの大統領や、日本の首相が決めることでもなければ、高名な知識人が決めることでも、専門家が決めることでもない。世界はあなたの定義次第だ。
 だから、あなたは自分自身のことですら定義できる、ともいえる。
 あなたが生きるに値する存在か、そうでないかはもちろん、優秀か、そうでないかも、決めるのは学校の教師でも、会社の上司でも、友人でも、恋人でもない。
 決めるのはあなた自身だ。

■解法6

 生きるのは義務ではなくて、権利である。
 学校で教育を受けること、会社で働くのも権利である。
 この当たり前の事実を間違えて認識していると苦しくなってしまう。
 つまり、生きることや、学校や会社に通学、通勤して一日を終えることを義務だと履き違えている方は多いし、それは訂正してほしい。
 万物は権利である。義務などない。
 そんなことはない、とあなたは反発を覚えるかもしれない。嫌だけど、仕方なくやっているだけ、できればしたくない。毎日の生活は苦痛で、生きるのは辛いもの。
 だが、逃げることはできないし、もちろん自殺するというチート行為もできない。

『自殺は人生の正解ではない』(解法1)

 なので。
 そう、生きて天寿を全うするしかない。
 そうなると、生に付随して、やるべきことは必ず付いて回る。
 前述の学校教育を受けること、会社で働くことは、どうしても、やらなくてはいけないこと。避けて通れないことで、もう覚悟を決めるしかない。
 あなたが選択できることは、どのみちしなくてはいけない課題を義務として渋々やるか、権利として楽しんでやるかのどちらだ。
 同じことなら、快適に済ませた方が得なので、権利として解釈したほうがいい。
 どのみち避けて通れないなら、楽しんだもの勝ちではないか。
 同様に、明るく前向きに生きる、ということにも触れよう。
 これも、似通った命題で、その心的態度は結果的にラクができて、楽しくて、苦労も少ないのだ。
 なので、結論として述べておく。

『生きることは権利であり、人生は明るく前向きに生きるものである』

 これは大切なことなので、一読しただけで忘れてしまってはいけない。
 是非、座右の銘として覚えていてほしいし、メモにとるなどして、折に触れて読み返してみてほしい。

■解法7

 この世界は存在しているが、その世界を意味づけるのはあなた自身だし、解釈するのもあなた自身だ。何故なら、あなたはあなたを超えて、この世を把握できない。という、どうしようもない制約があるからだ。
 客観的という言葉がある。話者が「客観的に言えば、そうなるね」などと日常表現でも用いられている。しかし、

『客観的なんてものはこの世にはない』

 というのが事実であり、真実でもある。
 勿論、例外があって、実験と数学だけはこの制約を逃れ得る。
 ということを、但し書きで添えなければいけない。

 よく分からない、という感想を持たれるかもしれない。
客観的に物事を把握することはできるじゃないか。よくそういう考え方で物事を見つめることがあるではないかと反論なさるかもしれない。
 だが、所詮、客観的というものは、主観をできるだけ排除した主観でしかない。
 認識の限界として。
 あなたはあなたを超えて、世界を認識できない。
 ということは、落ち着いて冷静に考えれば、お分かりになるはずだ。

『あなたはあなたの目を通してしか物事が見えない』

 ということを否定できない。
 どうしても、あなたはあなたというフィルターを通してしか、この世界を認知できない。
 あなたが月面の裏を見たいと思って、天体望遠鏡でも使って、月を観測しても、月も自転しているから、その後ろは地球上からは見ることはできない。
 観測したいなら、人工衛星でも飛ばすしかない。実際に人類が昔その方法で月面の裏の様子を写真に収めることに成功している。
 認識の限界は常に付きまとう。
 その制約が人間に付きまとう以上、誰もその制約の向こう側について議論することはできないし、形而上学がその制約を超えた先に存在するのは、哲学を学んでいる方なら周知のとおり。
 語りえぬことに関しては沈黙せねばならない。
 ヴィトゲンシュタインという哲学者はそう看破したが、その通りである。

 あなたが幸せかどうかは、誰にも分からない。
 あなたが不幸かどうかは、誰にも分からない。

 結論をまた述べる。

『未来は、あなたの想像を超える。あなたの予想は9分9厘外れてしまう』

 何故なら、あなたは神ではないから。
 あなたは自分という色眼鏡を使ってしか物事を見ることはできないから。
 解らないことも人間という存在の制約上ある。
 だから、解らないことは永遠に解からないので、思い煩わなくても良い。

■解法8

 これは自殺志願者として、この書籍を手に取った者の責務みたいなものだが、あなたは心療内科、もしくは精神科の門を叩いていると思う。
 まだ精神的な不調や心理的な悩み事があり、医師や公認心理師、臨床心理士に相談していないなら、一刻も早く助けを求めるべきだ。
 自殺という行為は脳のバグなので、死を決意するのは単純に脳機能の異常である。
 精神医療にお世話になるべきだ。

■解法9

 あまりに陳腐なことだし、生きるのが苦しくて仕方ないあなたが耳を貸すかどうか分からないが、あなたが亡くなれば、悲しむものがいることを忘れてはいけない。
 あなたのことを大切に思ってくれる人は、あなたが思うより少しだけ多い。あなたが大切に思っていなくても、相手はあなたに愛情や友情など親しみを持っていることは意外とあって。
 世の中には毒親もいるかもしれないが、あなたの母親は苦しんで、あなたを生んだことは事実だし、あなたが今存在しているのは、あなたを大切に思ってくれている人たちのおかげだ。もちろん、人間は完璧ではないし、親しみをあえて表現しない人は多い。それでも、あなたがこの地上からいなくなれば、悲しくて泣く人もいるだろうし、優しくしておけば良かったと人知れず後悔する人もいる。死ぬことを考えるほど追い詰められると、周りが見えなくなって、自分の命をどうしようが自分の勝手だ、と思ってしまう。
 説教なんかしない。おそらく、あなたの命はあなたのものだろう。しかし、あなたが亡くなれば、残念に思う人はあなたが思うより少しだけ多い。私もあなたがいなくなったら、寂しい。寂しくなかったら、こんな文章を書いて引き留めたりしない。
 大切なことを書き加えておくと、人生には仕方ないことがたくさんあって。それを後からどうこうすることはできない。取り返しのつかないことは、やはり取り返しがつかない。
 人生は仕方ないことの連続で。あなたが死を考えるほど辛くなったのも、仕方ない。すべての過ちやミスは仕方ない。それ以上、考えても仕方ない。
 今は苦しくてどうしようもなくて、泣きたいくらいなら、泣けばいい。涙が出るうちは泣いた方が気持ちは落ち着く。部屋の片隅で泣いてもいいし、人前で泣いてもいい。恥ずかしいことはない。泣いても今置かれた立場が変わらないと悟れば、泣きたくても泣けなくなる。泣けるうちに泣いておいた方がいいよ。
 最後に記しておきたいことは、今日は辛くて死にそうでも、明日になれば頭も冷えて希死念慮が和らぐ。あなたは悩ましい問題と適切な距離感を取り戻せるし、視野も広く大きくなる。近すぎて見えないことはままあるので、一晩眠ることは問題解決のために有益なことは忘れないで。
 死ぬのはいつでもできるから、明日また考えればいいさ。明日も良い知恵が浮かばなければ、また次の日に考えればいいさ。いつか立ち直る日まで、また明日考えよう。状況は変わらなくても、心の持ちようは確実に変わるから。
 急がなくても、大抵の問題は待ってくれる。ただ、待ってくれない問題に対しては、もう逃げるしかない。学校や会社へ行くのを諦めるしかない。ただ、誤解しないように付言するなら、逃げるという行為は臆病だからするわけではなく、勇気がいる。
 あなたが逃げるということは、環境を変化させることと同じだから。
 否応なく、学校へ行かない自分、会社へ行かない自分として生きていかないといけなくなる。考えたくもない学校や会社へは通わなくてもよくなるけれど、家にいて生きていくという現実は残っている。
 結局、自分からは逃げられない。
 なので、不登校や出社拒否は卑怯なことでも、弱い人間のすることでもないから自信をもって権利を行使すればいい。この世には義務なんてないのだから、権利を使わないという選択でしかない。何の問題もない。他人がとやかく言っても全く関係ない。他人はあなたの人生の背景でしかないのだから。いろいろとあなたに言ってくる人がいたとしても、その人は勝手に口を動かすくせに、大抵何の責任も取らないし、その覚悟もない。正直に付き合わなくていい。
 結論めいて述べると。

『あなたは、昔のあなたの延長線上にいるのです。あなたが一番好きだった自分、あなたが幸せだった頃の自分、輝いていたあなたが更に成長したのが、今のあなたなのです。嫌いになる必要はありません。だから、死ぬ必要はありません』(※価値の恒常性)

 あなたの自己肯定感が高ければ、死ぬなんてことは考えもしません。
 命を絶つ人は環境も自分も嫌いなのです。うんざりしているのです。だから、自分を始末してしまいたい。
 そんな日は、昔のあなたを思い出してください。
 あなたは昔と何も変わってない。ただ成長しただけ。老化してしまったというのはナシです。発達心理学の視点からすれば、老いていくのも成長として扱うのです。身体は弱ったかもしれませんが、心は成長し続けているのです。
 ちょっと疲れてるだけだから、休めばいい。それだけのこと。
 そう、ゆっくりと考えればいいのです。
 自殺は人生の解決法でも、正解でもありません。
 のんびりとゆっくり冷静に考える姿勢こそ、人生の諸問題に対する正解を導き出す心的態度なのです。

【自殺を企図した男の話】

 この書籍の締めくくりとして、ある若い大学生の話を致します。
 彼が誰であるかはどうでもいいこと。実話なので、聞いていただきたい。
 昔、昔、といっても、20年くらい前のこと。
 自殺を指南する書籍がありました。画期的かどうかは分かりませんが、誰も書かなかった類の本ですから、それなりに話題にもなりました。
 はっきり言って、ブラックジョークとして秀逸。或いは、雑学本として有用かも。
 医学生が書いたわけではない。医者を志す者は、少なくとも医師免許を取得するためには、その知識を生命の健康以外の目的で用いてはならない、という宣誓が必要です。
 ですので、いい加減で、不完全な代物です。シロウトが書いた文章です。それでも、何人かは確実に死にました。そんな本がありました。昔の話ですが、今も手に入るでしょうね。
 そんな前置きはどうでもよくて。
 これから昔話をします。

 高校時代に人間関係でうまく立ち回れず辛酸を舐めた。
 僕は高校から帰宅するためのみ、通学した。文字通りそうだった。
 いい思い出など一つもない。
 楽しくもないのにへらへらとしていた。誰にも自分が辛くて学校へ行きたくなんかない、お前らなんか大嫌いだ、ということを気取られるのを避けた。
 学校を休んだら、父親にぶん殴られたので、仕方なく通っただけ。
 勉強どころではなかった。
 最寄り駅から降りて桜並木の下を自転車で高校へ向かう。あと、1回この光景が見られたら、自由になれる。桜が散っても、そのくらいしか考えなかった。
 僕は高校を卒業した。卒業式が終わったら、一目散に帰宅した。誰にも用はない。こんな場所にいる義理はもうない。反吐が出る。
 浪人生になって、もっといい大学に入りたいと親に相談したが、却下された。
 無理やり高校に行かされた後は、適当に受験して合格した大学に無理矢理行かされることになった。ただ、大学に行きながら、受験勉強するのは許された。
 毎朝地元の大学への通学電車の中で、受験英語のカセットテープをリピート再生して、頭に叩き込むのが日課になった。大学の図書館でも受験勉強に打ち込んだ。女子学生たちが、僕が大学の図書館で、大学入試の勉強をしている光景を見て、クスクス笑いしていたが、どうでもよかった。誰にも僕の気持ちなど分からないし、分かってほしいとも思わなかった。
 予備校で行われる模擬試験には参加し、誰よりも高得点を取った。
 4月になって、ちゃんとした志望校を受験した。
 合格した。
 両親も入学を認めた。まさか合格できるとは思われてなかったので、渋々認めた形だったが、親も内心喜んでいたようだった。
 入学して独り暮らしを始めた。最初は良かった。志望した大学で学べる科目は興味のあることだったし、何より高揚感があった。思い出したくもない高校時代を克服した気がした。
 これでやり直せる。そう信じていた。
 5月。
 何故だか、気が重い日々が続くようになった。高揚感はいつの間にか消えていた。
 自分でもどうして、毎日辛いのかよく分からなかった。
 どうしようもない日々が続く。
 何も面白くなくなっていた。
 あれほど興味深く学んでいた講義もどうでもよくなった。
 何もやりたいことが浮かばない。趣味も楽しめない。ただ、気が重くて何もする気になれない。考えるのも嫌になっていた。
 下宿で一人泣いた。
 憂鬱な気分は強くなる一方だった。苦しかった。楽になりたかった。
 そういえば。
 少し前に自殺の方法が記された本があったな。以前購入して、読んだが実家に置いてきた。深夜、下宿近くの本屋で再び購入した。都会は便利だ。
 本を読み進めて、薬物自殺に決める。酔い止めの薬で死ねるらしい。
 数日後、薬局で大量に薬を買い込んだ。
 怪しまれるかもしれないと思ったが、店員は不審がることもなく売ってくれた。
 アルコールと併用するといいらしいので、近くのコンビニでビールも買ってきた。
 時計の針が12時を回って、深夜になる。
 じゃあ、死ぬか。
 その時の自分は、落ち着いていた。悲しいという気持ちはなかった。むしろ、自分はこういう運命だったのだな、と悟った気分だった。
 何の未練もない。自殺の儀式を進めよう。
 淡々とお椀にシートから薬を出しては、入れていく。白い錠剤でお椀が満ちた。体重から計算して、致死量は見積もってあった。全部入れ終わった。
 本によれば。
 大量に服薬すれば、眠くなるらしい。永眠か。
 今度は淡々と錠剤を口に入れては、胃の中へとビールで流し込んでいく。
 別に何とも思わなかった。何の感慨も浮かばない。
 お椀は空になった。
 どのくらいで死ねるのだろうか。
 時計を眺める。秒針が時を刻んでいる。
 やがて。
 1時間経ったが、何も起こらない。
 おかしいな。デマか。
 暇になったので、テレビをつける。ドラマが放映されていた。仕方ないので、観ることにした。
 いつしか、薬を飲んだことを忘れかけていた。
 だが、その瞬間は訪れた。
 体から力が抜けていった。何だ、これ。慌てて倒れそうになった上半身を立て直そうとするが、力が入らない。マズい。うつ伏せになってしまう。床の上で体が横になって、動けない。起き上がろうとするが、立てない。体が重すぎる。腕に力が入らず、体を起こせない。どうなっているのだ。全身から力が抜けて、どうしようもない。とにかく、立ち上がらなくては。もがくが体は動かない。ヤバい…。
 呼吸は? そういえば呼吸の感覚がない。慌てて息をしようと集中するが、力が入らない。呼吸しなくては死ぬ。息をしなくては。できない…!
 しまった。自殺なんて、するべきじゃなかった…。
 気を失った。
 最後に残ったのは、筆舌に尽くしがたい惨めさだけで。
 自分が救いようのない馬鹿であることだけだった。

 意識が戻った。
 上半身を起こした。気持ち悪い。
 嘔吐した。その場で吐くしかなかった。
 吐き気が止まらず、数回にわたって戻す。
 絨毯の汚れを気にする余裕はない。
 目の焦点が合わなかった。
 フラフラしながら体を起こした。なんとか、立ち上がることができた。
 時計を見る。もうすぐドイツ語の授業が始まるじゃないか。
 行かなければ。

 大学に着いて。
 ドイツ語の授業を受ける。講師のドイツ人が何を喋っているかわからない。
 頭が働かない。
 講義は終わった。
 大学付属の保健センターへ向かって、医師に自殺を図って失敗したことを告げた。
 医師は書類を書いた。1年間の強制休学だった。
 慌てて医師にもう自殺するつもりはない旨を伝えたが、ダメだった。

 楽に死ねると書かれていたことは嘘だった。眠くもならなかった。ただ、自殺は後悔しながら惨めに死ぬだけだということが分かった。

あとがき

 私は頭でっかちで理屈っぽくて世渡り下手で。
 おまけに精神科に通院しているアンバランスな人間だ。
 なので、海千山千の人生経験が豊富な猛者から見れば、随分と大層に減らず口を叩きおって、とお叱りを受けるに違いない。
 実務能力は皆無に等しいだろう。机上の空論をああでもない、こうでもないと、ほとんど世間では役立たないであろう事柄を延々と書き記した感は否めない。
 もちろん、私は自殺をどうにかして防げないかという問題を大真面目に論じたし、いい加減な気持ちで残しているわけではない。
 私は精神科医ではないが、患者としてはプロだ。
 もちろん、患者にプロなんてあるわけもないが、患者側から見た精神科医療の闇は否応なく知り尽くしているし、顔見知りも数名自ら命を絶った。
 なので、自殺というキーワードが生活にほとんど関係ない方からすれば、一読するくらいの価値はあるのではないか、と思っているし、死にたいと考えている方、希死念慮が強い方には何か訴えるものがあるのではないかと思い、筆を執った次第である。
 また、この投稿はすべての読んでくださる方のものであるが、その中に私自身も含まれている。私も折に触れて読み返しては思い留まっている。
 この一連の文章が、あなたの命綱になることを願ってやまない。
 ご精読ありがとうございました。


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自殺志願者のためのクスリ (youtube.com)

自殺志願者のためのクスリ【朗読編】 (youtube.com)



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