見出し画像

5人の家族と 150人の仲間を助ける

りなるさんは、物事の本質を考え続ける思想家です。
りなるさんの問題意識は、私のそれと共通する部分がたくさんあります。
例えば、「しない」という考え方は、私が日頃考えていたことがじつに見事に言語化されていて痛快でした。

最新の記事『家族とフォールト・トレランス』を読ませていただきました。

この記事に触発されて私が考えたことを書こうと思いました。

リスクマネジメントとは付保のこと

私が働くグローバル企業に「リスクマネジメント」という部署があります。部署名からして、どんな経営マターを扱っているのか、と思わされますが、なんのことはない、グローバル・インシュアランス・パッケージと呼ばれる包括的保険契約をメンテナンスする部署です。
欧米のビジネス用語では、リスクマネジメントとは付保のことなのです。

私は生命保険にすら入っていないほど保険が嫌いです。保険会社とはただの金融屋だと考えているからです。
しかし、保険という考え方が人類の偉大な発明であることは認めます。
保険の起源は諸説あります。
私が学部で習ったのは最古のものです。気候条件の異なる 2つの村落が契約を結びました。干ばつや自然災害などにより、一方の村落が十分な農作物を確保できない場合に、他方の村落が農作物を分け与える、というもの。
非常にシンプルなモデルですが、これが保険=リスクマネジメントの始まりだそうです。

国とは一つの巨大な保険機構である

中世から近代にかけ、時代の変化とともに海上保険、火災保険、生命保険、自動車保険などが考案されていきます。
そして、保険を世界で最初に ”公”おおやけ の制度にしたのがプロイセン(ドイツ)のビスマルクでした。医療保険年金保険のことです。
これらもリスクマネジメントですね。
この場合のリスクとは、病気と高齢です。

保険というのは、制度に参加している(掛け金を支払っている)者だけが、いざというときのベネフィットを受けられます。
たいていの国には、これらの公的保険に加えて、公的扶助の制度があります。
生活保護は、掛け金を支払っているか否かに関わらず、それを必要とするすべての国民が受ける資格を持ちます。
保険の本質がリスクマネジメントであることを思えば、公的扶助も広い意味での “保険” と言えます。
こうしてみると、国というのは、税制を通じた所得の再分配を行いながら、健康保険や年金といった狭義の保険制度と、広義の保険である生活保護制度をもつ、巨大な保険機構だとわかります。

自助・互助・共助・公助

菅首相(当時)が「自助・共助・公助」という政策理念を掲げたとき、それはセイフティネットとしての国の役割を放棄するものだ、と野党などが批判しました。
おそらく、「自助」が先頭に置かれていることで、自己責任論を助長しているように聞こえたのでしょう。
しかし、3つの助の順序はさておき、自助・共助・公助のどれも重要であり、一つでも欠けてはならない、という意味であれば、至極真っ当なことを言っています。
と、思わず納得してしまった私は、「共助」の意味を誤解していました。
共助とは、健康保険や年金などの保険制度を意味する言葉なのです。
では公助は?と言うと、生活保護制度などの公的扶助のことを意味します。

本来この言葉は、「自助・互助・共助・公助」という “4つの助” が正しいんだそうです。
「互助」とは、近隣の助け合いやボランティア活動などのインフォーマルな相互扶助を意味します。
私は、共助がそれだと勘違いして、3つの助に納得していたのです。

「自助・共助・公助」
当時の菅さん、ひいては自民党の政策理念には互助がないのです。

仲間として意識できるサイズとは?

共助も公助も国単位の扶助。
私はそこに大きな危険性を感じます。

年金にせよ、生活保護にせよ、困窮する者に救いの手を差し伸べるためには、仲間は助けなければならないというコンセンサスが必要です。
集団の一員を助けるべき仲間として意識するためには、ある程度のつながりがなければなりません。
そのつながりを醸成するのに、1億人という単位は大きすぎるのです。

お互いを仲間として意識することができる共同体のサイズ(限界)について、20万人と言う学者から、150人と言う学者までピンキリのようです。
しかし、1億人と言う学者はいません。

古代の村落や中世のギルドでは、互助の仕組みが機能していました。
それは、お互いを仲間として意識できるサイズだったからでしょう。
古代と現代とでは人口がケタ違いです。しかし、人間の脳は何千年、何万年もの間ほとんど発達していないと言われています。
1国の人口が、ヒトの脳が仲間意識を共有できる限界をはるかに超えてしまっているわけです。
1億人単位の共助と公助は、助ける側のコンセンサスを得られないのです。

国の政策に互助がないのなら、地域がそれをつくるしかありません。
1億人を仲間と考えるのは無理としても、150人を仲間と考えることがヒトにはできるそうです。

おれは助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある!!!
( モンキー・D・ルフィ)

海賊王になる男がこんなことを言うのです。
誰かに助けてもらわずに生きていける人間などいません。

家族は排他的である、とりなるさんは言いました。恐るべき慧眼ですね。
最も親密な最小集団は 5人程度だと言われています。家族もその一種です。
最も親密な 5人を助けるのは当然のことでしょう。
1億人の集団は助け合うことができないので、国が公的に助けるべきです。
5人と 1億人の間に、150人という単位をつくって、互助の仕組みを入れてはどうだろう。
以前イメージした「まち」はこれだったんだ、と気づいた次第です。