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3D、三種の神器

いつからだろう、とよく振り返ることがある。

認められたい
褒められたい
誰かに評価されたい

と。

もちろん
認められると自分の存在感が確かなものに感じられる(気がする)。
褒められると結局嬉しい。
評価は低いより高い方がいい。

いつからだろう。
全てに自信を失い、3D(でも、だって、どうせ)の権化、卑屈の極みのような人格になってしまったのは。
立派な甲冑を纏うことに全力を注ぎ、目も耳も心も塞いでるくせに、自分の居場所を探すのに必死になっていた。
無駄な時間、とは思いたくないけれど。

このままじゃダメだ、と気づいた時には「ダンサー」を名乗ることを真っ先に諦めた。
だけど、人生は不思議なことが起きるもので…
結局「踊り」から離れることはできなかった。

未だに、心の底にいる。
「別にダンサーになりたいわけじゃない」
「舞台には立たなくていい」
頻繁に見え隠れする。
苛立ちの矛先は一体、と苛立ちに苛立ちを積み重ねる。

バレエ団に入る動機は「プロとして活躍したい」「ダンサーとして生計を立てたい」とかそんな理由ではなかった。
毎日お稽古をして、踊りを学び続けられる環境にいたいと思ったから。
大きな舞台の公演に立つのも、オーケストラによる生演奏の舞台に立つ憧れも多少はあったけど。
それらの理想を叶える一番の手段がバレエ団に入ることだった。
今思えば不純だったかもしれない。
入れるわけがない、と思っていたけど、人生は不思議なことが起きるらしく。
コンクール経歴もない、温室育ちの私が偶然にも入団できてしまった。

団員の一員として、舞台に携われることが幸せだった。
どんな役であれ、嬉しかった。
香盤表に名前がある、その事実だけが嬉しかった。
規模の大小関わらず、舞台に立つことが有難かった。

それは「踊り」が好きだったから、だと思う。
キャスティングなんてどうでもよかった。
立ち位置が最後尾の端っこでも何も不満はなかった。
良くも悪くもライバル意識が低かったのかもしれない。

だけど、一般的には「いい役」をもらうことと「センターに近づくこと」がダンサーとしての価値や評価に繋がり、その思いがない奴は「向上心のない人」と思われるらしい。

「コールドはいかに存在感を消すかが大事」と先輩に言われたことがある。
群舞でよく怒られていた私に励ましとしてかけてくれた優しさなんだろうけども。
舞台に立つ以上はどんな役であろうと、どんな位置にいようと、存在感を出していくものなんじゃないのか…と。
憧れていた先輩だっただけに、ダメージは大きかった。

きっと当時は自信があったんだと思う。
誰よりも役と踊りに向き合っている、と。
コールドは無難に、立ち役は地味に、そんな風に思っている人にはなりたくなかった。

環境のせいにはしたくないけど、全てを環境のせいにしていた。
何かのせい、誰かのせいにしなければ、立っていられなかった。

環境に染まらず、自分を強く保てる人は果たして存在するのだろうか、とふと思う。

私はダンサーです。
と、未だに胸を張って言えない。
確かに踊りだけで生計を立てられているわけではないので、残念ながら所謂「職業」としてダンサーとは言えないのかもしれない。

だけど師はこう言う。
踊りは「職業」ではなく「生き方」だ、と。

動いている手足だけが踊っているわけではない。
バーを持っている手も、見た目では止まっているように見える軸足ですら踊らなければならない、と。
立ち姿ですら、踊っていなければならない、と。
そして何より気持ち、心も踊る必要がある。

嗚呼、私が今まで踊りと思っていたものは、すごく甘かったんだ、と。
舞踊に関わり25年以上経った今。
まだまだ未熟で、ダンサーとして名乗るには程遠いと思い知らされる。

音楽が流れて手足を動かしてるだけが踊りではない。
バリエーション、グランをノーミスで踊ることができるから立派なダンサーだなんて馬鹿馬鹿しい。

一曲を当たり前に踊りきることができない自分に自信を失い、いつからか無難に踊ることをベストだと思い込むようになってしまった。
ピルエットがたくさん回れるから、脚が高く上がるから良い、と考えている愚か者と大差ないじゃないか。

もちろん、技術的にたくさん回れた方がいいし、脚も低いよりかは高い方がいい。
だけど、何より大事なもの、忘れちゃいけないもの、があるはず。

それだけで踊っていくほど、甘い世界ではないけれど。
それを無視して踊ることは不可能じゃないか、と思う。

もう踊りたくない、と思うことはよくある。
レッスンだけでいい、と。
生徒の指導だけで十分ではないか、と。

だけど、踊れなくなったその時が来たら。
きっと後悔するんだと思う。
いつかはやってくる。
踊りたくても踊れないその日が。

その時に「もっとやっておけばよかった」と。
そんな風に思うのだけは避けたい。

今ですら、昨年もっと頑張ればよかったのに。
今日のレッスンもっと頑張ればよかったのに。
と、自己嫌悪に陥ることがある。

時間は有限であり、日々着実に寿命は削られていく。
そんな当たり前のことをどうして理解できないんだろうか、と。

結局のところ、他人軸で生きているとそういう風になるのだ、と気付かされる。

冒頭の認められたい、褒められたい、評価されたい、に繋がる。

自分が自分を認めなくては、評価しなければ。
どれだけ貴女を認めています、頼りにしています、と言われても。
どれだけ褒められ、高い評価を得られたとしても。

その一瞬は幸せかもしれない。
満たされた気になるかもしれない。
だけど、そんなものは虚像でしかなく。
また「でも」「だって」「どうせ」の三種の神器がちらつく。

いつまでこんなことを繰り返すのか。
次のステージに進みたいと思っているのは自分じゃないのか。
このままでいいわけない、と思っているのは紛れもなく自分じゃないか。

変わらないと。
進まないと。
足元を見続けるのはもう飽きたでしょう。
じっとしていても何も変わらないことは、今までたくさんの経験からわかったでしょう。

怖いとか不安とか。
そんな甘ったるいこと言い続けて、10年後20年後、後悔するのは自分自身だぜ、と。

誰も頼らない。
誰も信用しない。

そう思っているなら、せめて自分だけでも信用してみたらどうか。
いや、心配しなくても頼れる、信用できる仲間は少なからずいるはず。

ご立派な甲冑を纏い、その重さに苦しむぐらいなら。
いっそのこと全て取っ払ってみたらいいじゃないか。

どうせ同じ時間が過ぎるのだから。
同じ過ちを繰り返してどうするの。

断ち切りなさい。
進みなさい。
受け入れなさい。

そう言われているような気がする。

今が変わる最後のチャンス。
これを逃したら、もう死んだも同然。

熟れてもないのに腐るだなんて。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。



なんとまぁ過激な独り言だこと。

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