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20代自分史 …夢を追って叶わなくて前に進んで倒れて-part2

引き続き自分語りを始めたいと思います。

前回の記事。↓


23歳 2011年 平成23年

未曾有の大震災が起きた。3.11だ。就職氷河期の中をなんとか潜り抜けた先に起きた出来事である。自分は大学卒業を目前に控えていた。映画を撮ることばかりに集中していたのに何とか単位を修得し留年せず不本意ながら内定も取りとりあえず露頭に迷う事はなくなったがこの時は日本が終わったと思った。春休み中行くあてもなく池袋のジュンク堂に居た。とにかく大揺れで本棚の本は落ちてきてその場にいた人たちはエスカレーターに殺到した。自分はもうなるように任せ人混みが収まってから外に出た。電車が止まり、車もそこらじゅうで止まっていた、サンシャイン通りの古いビルからは排水管が破裂したらしく水が吹き出していた。何が起きたのかわからなかったがとにかく地震であることは確かだった。とりあえず落ち着くためになぜかゲーセンに行った自分。よし、ここなら安心できる。←馬鹿。

ゲーセンで二度目の地震が起きた。あっ流石に死ぬな?と思ったが生きていた。なんだかんだ地震の中心の東北でもなく東京にいた事ですら幸運だったように思う。駅に向かうと池袋の西口公園に避難した人達や駅前にごった返す避難民達が押し寄せていた、かくなる自分もまさにその一人だったわけだがその様子を見て歩いて帰る事を決意して歩いて帰った、途中の雑貨店に置かれた街頭に映し出されたテレビ映像の中で津波が東北を襲っている映像が流れていた。地震以降初めてテレビを見た。この時、二度目の日本は終わってしまったんだなと感じた。その後は父親の単身赴任先のマンションに何とか歩きで帰り着きしばらくそこで過ごしていた。燃え盛る仙台の街の映像がテレビから夜中ずっと流れていて寝付けない自分はその地獄の光景を鉄製のヘルメットを抱きながら見ていた。父親は自衛官だったので緊急招集がかかり家には数日間帰ってこなかった。ただ、父親の存在があれほど大きく力強く頼もしく思えたのはこの時が一番大きかったように思う。素直に23歳にして怖かった。特段自分が何かあったわけではないが不安が募っていたのを覚えている。。数日経ち父親が家に戻ると自分の中での災害事態は沈静化したように思う。

その後は春休みが終わりまで近づいてたこともあってすぐに卒業式だった。自粛ムードで自分の卒業式はなくなり教室で卒業証書だけの授与で終わった。そこまで経つと他人事のように震災の事はどんどん忘れていつのまにか日常に戻っていた。受け入れたとも言えるし忘れたとも言える。酷い人間かもしれない。

4月1日入社した会社で今も付き合いのある親友と出会うことになる、専門学校卒業してエンジニアとして自分と同じく入社した同期だ。そいつとはなにかとウマがあった。映画の夢を捨てきれない自分は事あるごとにそいつと話したり相談したりバカをしたりしながら毎日の労働とも言えない内容の仕事をなぁなぁでこなしていたように思う。仕事をすればするほど自分にはその仕事に面白みを感じず何故就職したのか後悔の念が強まっていた。そんな思いに比例して映画の思いはどんどん強くなっていた。結果たった一年で新卒で入社した会社を退職した。日々悶々としていた自分は相当頭にキテいた、怒ってる方ではない、半ば鬱のような感じだろう。ちなみにそんな自分に退職届を書かせてくれたきっかけのテレビ番組がある。北野武さんのアートビートという番組だ。武さんがさまざまな人に会いに行く番組だった。自分がその時に見たのはゲストでフェラーリのデザインをしていた奥山清行さんの特集だった。自由に作るそんな様を見せられた自分は、今俺の人生って何をやってるのかな?夢を夢のまま挑戦せずに終わらせていいのかなと思ったら自然と目の前にあった小さいメモ用紙に退職届とボールペンでなんとなく書いたのだった。退職したのはそこからほどなくしてである。

退職するには一ヶ月の猶予がなくてはならなかったが一刻も早く退職したかった自分は押し切る形で退職を受理させた。退職日は三月末日。

なぜ稀代の怠け癖で臆病な自分が押し切れたかというと

4月には映画専門学校への入学が決まっていたからだ。

続く


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