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閑話:浜田幸策訳『マキアヴェリ戦術論』について〜【マキァヴェッリを読む】Part4


浜田幸策訳『マキアヴェリ戦術論』について

今回取り上げるのは、マキァヴェッリ『戦争の技術』の邦訳の一つ、原書房から出版されている浜田幸策訳『マキアヴェリ戦術論』です。

マキァヴェッリ『戦争の技術』の最初の邦訳として1970年に出版されました。
現在流通しているものは、2010年に新装版として出版されたものです。

マキァヴェッリ『戦争の技術』の各種邦訳

マキァヴェッリ『戦争の技術』には、4種類の邦訳があります:

〈1〉浜田幸策[訳]『新版 マキアヴェリ戦術論』原書房2010年(旧版1970年)
〈2〉服部文彦・澤井繁男[共訳]「戦争の技術」(『マキァヴェッリ全集1』所収)筑摩書房1998年
〈3〉石黒盛久[編訳]「戦争の技法」(『戦略論体系13マキアヴェッリ』)芙蓉書房2011年
〈4〉服部文彦[訳]『戦争の技術』ちくま学芸文庫2012年

このうち、〈1〉浜田訳以外の翻訳については、にわかには甲乙つけがたいので、どれを選んでもいいと個人的には思っています。
しかし、〈1〉浜田訳だけは読むに値しない代物であり、読むべきではない、というのが私の評価です。

なぜ浜田訳『戦術論』を選ぶべきではないと思うか

Amazonのレビューには、〈1〉浜田訳の方が〈4〉服部訳より「読みやすく、内容を理解しやすい」というものがあります。
たしかに、原著にはない小見出しが浜田訳にはたくさんついているので、浜田訳の方を読みやすく感じてしまうのかもしれません。

しかし、浜田訳は翻訳者の語学力を疑わせるレベルで、不正確な翻訳であると私は判断しました。
翻訳された文章が不正確であるならば、読みやすい読みにくい以前の問題です。

浜田訳『戦術論』の翻訳の検証

ためしに、序文の最初の部分から何箇所か取り上げて、浜田訳がどれほど不正確な翻訳か示してみたいと思います。
比較対象としては、もっとも入手しやすい〈4〉服部訳(ちくま学芸文庫)を使いました。
まず、服部訳の文章を先に挙げ、続いて同じ箇所の浜田訳を載せます。

(そもそも服部訳がどこまで正確なのか不安に思う方は、イタリア語版や英訳版など別言語の文章を(読めない言語ならば翻訳ツールを使って)確認してみてください。
序文なので、Google  Bookどころか商品サンプルでも、ここに挙げた文例がすべて閲覧できる場合が多いかと思います。
また、取り上げた文例はすべて序文の最初の方にあるので、該当箇所を見つけ出すのも容易いかと思います。
少なくとも、ここに挙げた文例に関するかぎりは、服部訳に問題はないと私は判断しました)

文例1

「人間の振る舞いは、市民生活と軍隊生活ではまったく異なるものである」という他の人々の見解を、マキァヴェッリは序文の冒頭で紹介します。
最初に取り上げるのは、人々が抱いているこの意見について具体的に書き連ねて紹介した部分の最後の一文です。

服部訳:
「このようなわけで、今日、先にあげた市民生活と軍隊生活についての見解がそれは真実であるかのように流布されています。」

服部訳『戦争の技術』p.7

浜田訳:
「それでこれからみますと、私が以下にのべるような意見は今日もっとも適切なものだといえましょう。」

浜田訳『戦術論』p.33

文例2

文例その1の直後の一文。
マキァヴェッリが自身の見解(文例1浜田訳では「私が以下にのべるような意見」となっている)を表明し始める一文。

服部訳:
「しかしながら、古代の諸制度を考えてみれば、当然とはいえ、市民生活と軍隊生活ほど、互いに親和し、似通い、一体となっているものは他に見あたりません。」

服部訳p.8

浜田訳:
「さて、もし人々が古代の諸制度について思いをめぐらすならば、あれこれの社会関係が強力に統合されたり、強力に組織化されていなかったことに気づくでしょう。そしてこのことから必然的に、古代においてはこうした社会秩序より、もっと強力に人々を引きつけるある一つの組織が存在したのではないかということです。」

浜田訳p.33

文例3

軍事力による防衛への配慮がない社会について述べた文章。

服部訳:
「逆に言えば、良き諸制度でも軍事力の助けがなければ崩壊するばかりです。
それは、宝石や黄金を散りばめた絢爛豪華な宮殿の住人たちが、屋根がないばかりに、いざというとき雨をしのぐ手立てを持ち合わせないのと同じです。」

服部訳p.8

浜田訳:
「ところで今度は逆に、立派な秩序体系が存在していたとしても軍団の援助がなければ、宝石や金をちりばめた堂々たる王宮を築営するほどの大きな犠牲をこうむることになります。そして覆いがなければ秩序体系を雨漏りから防ぐすべは何もないことになりましょう。」

浜田訳p.34

文例4

服部訳では、軍隊生活を経験した人間の、信義、平和への愛好、神への畏れについて述べた文章。
浜田訳の場合は、軍隊生活を欠いた市民について述べたものになっている。

服部訳:
「というのも、祖国のために死を覚悟した人以上に、いかなる人間により多くの信頼を置けるというのでしょうか?
戦争そのものによって傷つけられる人以上に、誰がさらなる平和を慈しむものでしょうか?
毎日、無数の危険にさらされながら神のご加護を是非とも必要とする人以上に、いったい誰に神への畏れがあるのでしょうか?」

服部訳p.9

浜田訳:
「いかなる市民にたいしても、国家がみずからの祖国のために命を捧げねばならない兵士たちにもましてより大きな信頼をかけなければならないのはなぜか?
これらの人々(市民)が、戦争の場合にだけ被害をうける人々に比してより平和を愛好するのが当然だというのはなぜか?
またこれらの人々がその無限の危機にさらされている関係上、現に毎日戦争の危険の中でその解放を待ち望んでいる人々よりも、いっそう神を畏敬しなければならないのはなぜか?」

浜田訳p.34

結論:浜田訳の翻訳は信頼して読めない

翻訳者の語学力への疑念

原文を参照するまでもなく、訳文を並べてみただけでも、関係詞や指示語の対象を取り違えているのが予想されるのではないでしょうか。
もしかすると構文自体がわからないまま訳しているのかもしれません。
そのままでは意味が取れなかったため、意訳しようと言葉を勝手に継ぎ足して、かえって変な翻訳になってしまったのではないかと思います。

ここまでに挙げた文例はすべて、序文の冒頭約2ページだけから採られたものです。
翻訳で約270ページある全体ではいくつ問題があるやら想像もつきません。

語学力以外の理由

(序文の誤訳を見て真正面から調べる気にもならなかったので)根拠としては弱いのですが、他にも浜田訳への評価が低い理由があります。
マキァヴェッリを翻訳するために必要な西洋政治思想史についての知見が不足しているのではないかと疑われるのです。

具体例を序文から引くと、浜田訳は、共通「善」を「財産」と訳しています。
ただの揚げ足取りかもしれませんが、こういう初歩的な間違いを見ると、この翻訳は大丈夫かなと思えてしまうのです。

浜田訳への疑問を述べた他の方の記事

近世ヨーロッパ軍事史について書かれている旗代屋さんという方のnote記事でも、また違った箇所について浜田訳が検討されています。

服部訳で発見された誤訳箇所にも触れてあるので、興味を持たれた方はこちらもどうぞ。

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