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マキャヴェッリの戦術論 その日本語版について

近世欧州軍事史備忘録の第1巻で、デニソンの騎兵史 第三部を翻訳したところ、随所にマキャヴェッリの戦術論が引用されていた。そこで引用文を翻訳するにあたって、既に存在するマキャヴェッリの戦術論の日本語訳を参照したのだが、色々の問題があることが分かったので紹介する。

二冊の日本語訳

まず、マキャヴェッリの戦術論としては原書房から出版されているこちらの本が有名である。

amazonの評価も結構上々で、出版年も2010年の新しめな雰囲気がある。しかしながら、実際この本の元々の翻訳は1969年でかなり古い。

そして戦術論には実はもう一つの翻訳がある。それは、ちくま学芸文庫版である「戦争の技術」である。元々は「マキァヴェッリ全集1」に収録されていたもので、翻訳は1998年になる。題名違うよと思う向きもあるかも知れないが、洋書の常で、訳者が変わって題名が変わることは珍しくもない。マキャヴェッリの本書も原題は「Dell'arte della guerra」で直訳すれば「戦争の術(について)」くらいになるので、新訳の方が実は正確であるとも言える。


ではどちらがお勧めなのか? 結論から言えば、今回の騎兵史の翻訳で明確に、ちくま学芸文庫版の「戦争の技術」の方が良いことが分かった。

実はamazonを見ると、ちくま学芸文庫版の方が評判が悪いのであるが、読み比べてみると、読みやすい読みにくいの問題ではない。(評判が悪いと言ってもレビュー1件のみなので、正当性には欠けるだろう)

端的に言えば、原書房版の翻訳の方が、ミスが多いと思われるからである。

思われるとしたのは、私自身が総てを検証したわけではないからである。しかし、私が騎兵史を翻訳するにあたって調べた第二章の数頁でも、かなりのミスが散見された。

イタリア語版や英訳版との比較①

例えば原書房版p.86において、ドイツ人が長槍を採用して騎兵を打ち破ったことを述べている箇所がある。原書房版から引用しよう。

それゆえ、彼らは矛槍を武器として使用していますし、騎兵に対抗するためばかりでなく、それに打ち勝つためにもっとも有益な武器として使用していますし、騎兵に対抗するためばかりでなく、それに打ち勝つためにもっとも有益な武器だと考えています。それからドイツ人はこの武器とこの軍制のおかげで大胆不敵になり、彼らのうち一五、〇〇〇あるいは二〇、〇〇〇人のものがどんな騎兵の大軍をも迎え撃ったのです。「戦術論:【訳】浜田幸策、86頁」

ここにおいて原書房版は、長槍とするべきところを矛槍にしてしまっている。

当然のことながら長槍=パイクであり、矛槍=ハルバードと受け止めるため、明らかに違う兵器である。そして、これが長槍であることは明白である。

同じ部分をGoogle Bookにある1540年版で見てみよう。
Libro dell'arte della guerra di Nicolo' Machiauelli cittadino, et secretario fiorentino(google bookより、p21左葉の下から3行目

ここには、しっかりとpicche(piccaの複数形)とある。長槍はpiccaであり、矛槍はalabardaとなるので、ここで矛槍とするのは明らかに間違いである。

英語版のGoogle Bookの翻訳p239を見ても長槍(pike)となっていることが分かる。
The Prince and the Art of War(google book)

一方でちくま学芸文庫版の「戦争の技術」を見てみよう。(なお、私はKindle版を持っているため頁数は不明であるがロケーションNoを記した)

大槍を選び取り、それは騎兵軍に持ちこたえるばかりか、これを打ち破るのに極めて有効であった。「戦争の技術:【訳】服部文彦、Location: 760」

piccaの訳語に長槍ではなく、大槍という耳慣れない用語を採用しているところが一般的ではないが、読み取るにおいては問題ない。

イタリア語版や英訳版との比較②

他にも丸々文章を削ってしまっている箇所が近くにあった。同じく原書房版p.86においてシャルル王がイタリアに侵入して以来という一文がある。

シャルル王がイタリアに侵入して以来、各国人が彼のやり方を真似るようになりました。「戦術論:【訳】浜田幸策、86頁」

しかし、この後ろには本来、「スペイン軍が高い評判を獲得した」という一節が入るのである。同じ部分をGoogle Bookにある1540年版で見てみよう。

Libro dell'arte della guerra di Nicolo' Machiauelli cittadino, et secretario fiorentino(google bookより)
p21右葉の上から7行目がその原文である。

19世紀のイタリア語版も見てみよう。該当箇所はp.30の上から18行目となる。(なお先ほどの長槍の箇所も同頁の上から10行目にある)
Libro dell'arte della guerra(google bookより)

英語版のGoogle Bookの翻訳を見てもそれぞれしっかりと、スペイン軍の評価についての記載が記されているのが分かるだろう。

so that the Spanish armies have come into a very great reputation.
The Prince + The Art of War(google bookより)

では、ちくま学芸文庫版の「戦争の技術」はどうであったろうか? 以下がその訳文である。

こうしてスペインの軍隊が、比肩するもののない評判を手に入れるまでになったのだ。「戦争の技術:【訳】服部文彦、Location: 765」

おおよそ問題がない訳文であると思われる。

イタリア語版や英訳版との比較③

しかし、これらは些末なミスであるとも言えるかもしれない。マキャヴェッリの意図を大きく誤解させるものではないからである。

だが次の箇所については問題があると言わざるを得ない。

何故ならば意味が逆転してしまっていおり、しかもその箇所が、マキャヴェッリが騎兵をどの様に見なしていたのかを記す重要な記述だからである。

原書房版p.93を見てみよう。

こういつた点が問題になるにしても、私は決して騎兵が評価するに値しないなどとは考えていません。これまで述べてきたように、われわれの時代でもたびたび騎兵は歩兵と出会って恥をかかされてきました。それで、ここでこれまで述べてきたような武器と編成を整えた歩兵にも対抗できるようになれば、騎兵もまた歓迎されるようになるでしょう。「戦術論:【訳】浜田幸策、93頁」

ここではマキャヴェッリが、自分の時代の騎兵を「評価するに値しないとは考えていません=評価に値する」と述べたことになっている。

しかし、この後で見るように、マキャヴェッリが述べたことは全くの逆であった。

それではまず、同じ部分をGoogle Bookにある1540年版で見てみよう。

Libro dell'arte della guerra di Nicolo' Machiauelli cittadino, et secretario fiorentino(google bookより)
p24左葉がその原文である

該当箇所は先ほどの19世紀のイタリア語版だとp.33である。

Con tutto questo, nondimeno, io giudico, che non si debba tener più cont de' cavalli, che anticamente se ne tenesse, perchè, come di sopra si è detto, molte volte ne' tempi nostri hannno con i fanti ricevuta vergonga, e la riceverannno, sempre che riscontrino una fanteria armata ed ordinata come di sopra.
Libro dell'arte della guerra(google bookより, p33)

また、英語版のp.245の7行目の同一箇所を参照すると、次のように記されている。

I am not of the opinion, however, that we ought to depend any more upon cavalry than they did in former times; for, as I said before, lately we have seen them often shamefully beaten by Infantry. Indeed, they must always come off badly when they engage an infantry armed and appointed in the above-mentioned manner.
The Prince and the Art of Wargoogle bookより,p245)

どちらの版でも大凡の意味を取れば「しかし、古代であったよりも騎兵に頼るべきであるという意見に私は与しない」となる。

そして原書房版は続く文章でも、前段で意味を逆にしてしまったために、文意を繋ぐために翻訳者は原文にない言葉を費やした挙げ句、全く逆の意味にとれる「歩兵に対抗できるようになれば、騎兵もまた歓迎されるようになるでしょう」という文章を締めくくってしまった。

もちろんイタリア語版でも英語版でも意味は逆で、近年になり歩兵によって騎兵が破られてきたことをマキャヴェッリは指摘するのである。

ではちくま学芸文庫版の「戦争の技術」の訳文はどうであったろうか?

こうしてみると、わたしは古代ほどには騎兵をあまり重要視すべきでない、と判断する。その理由は、先にも述べたように当代では幾たびも歩兵相手に恥をかかされてきたし、また前に述べたごとく、武装して隊伍をを組んだ歩兵隊と相対するときは、いつでも苦杯を喫するだろうからだ。
「戦争の技術:【訳】服部文彦、Location: 849」

問題がない内容であることが分かるだろう。

結論

自分に必要な箇所をちょっと調べただけなので、全体については何とも言えないが、限られた範囲内であってすら様々なミスが発見される原書房版の翻訳には注意をした方が良いと見なすのが妥当な結果である。

もっとも、ちくま学芸文庫版の「戦争の技術」にもミスがなかった訳ではなかった。例えば原書房版「戦術論」で、長槍と矛槍を取り違えてしまっていた箇所において、ちくま学芸文庫版は、その箇所はキチンと訳せていたが、それに続く一節で、ドイツ兵が騎兵を打ち破ったとあるはずが、スイス兵に取り違えてしまっていた。

これらの武器や戦闘様式のおかげで、 スイス兵は大いに意気が揚がり、 彼らの一万五千から二万の歩兵が、どんな騎兵の大軍をも攻略していくことになる。
「戦争の技術:【訳】服部文彦、Location: 761」

ここがスイス兵ではなくドイツ兵であることは、1540年版でも19世紀のイタリア語版でもテデスキ(Tedeschi)とあり、英語版でもジャーマン(Germans)とあることから明白である。
Libro dell'arte della guerra di Nicolo' Machiauelli cittadino, et secretario fiorentino(google bookより、p21右葉の1行目)

Libro dell'arte della guerra(google bookより, p30 上から12行目)

The Prince and the Art of Wargoogle bookより,p239 下から10行目)

つまり、ちくま学芸文庫版も完璧ではなさそうではある。
とはいえ、今回調べた箇所だけで言えば原書房版よりは圧倒的にミスが少ないことも確かである。

以上のことから、マキアヴェッリの戦術論を読むなら、ちくま学芸文庫の「戦争の技術」が良いということが分かった。

もっとも原書房版に対して厳しい結果にはなったが、翻訳が行われた時代も古いことから、訳者には色々な制約があったのかもしれないと思う。

さらに言えば翻訳と言うのは大変な作業である。私も近世欧州軍事史備忘録としてデニソンの騎兵史を抜粋翻訳した訳だが、私の文章こそ見返すと誤訳していたり、訳抜けしていて酷いものだった。色々と手を入れて何とか形にしたがまだまだミスが内在しているはずである。つまるところ、まったく今回発見したミスを責めることができる立場に私はいない。

翻訳者の方々には改めて頭が下がる思いです。


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