マキァヴェッリ『フィレンツェ史』(その2・マキァヴェッリの描くフィレンツェ像)〜【マキァヴェッリを読む】Part7
イタリア半島の中央、トスカーナ地方の都市の一つでしかなかった都市、フィレンツェ。
わずか300年足らずの間に、かつては同格であった他のトスカーナ北部の諸都市を勢力下に置いていき、遂には、イタリアの五大勢力の一角をしめるまでに成長します。
そんな自身の祖国の歴史について、マキァヴェッリはどのように見ていたのでしょうか。
ローマ教皇庁や当時の戦争についての言及を見た前回(【マキァヴェッリを読む】Part6)に引き続いて、今回はマキァヴェッリが描いたフィレンツェの姿を見ていきたいと思います。
次回の記事では、今回取り上げたフィレンツェの歴史に対するマキァヴェッリの理論的考察、『フィレンツェ史』に現れたマキァヴェッリの政治思想を取り上げる予定です。
マキァヴェッリの見たフィレンツェ史の全体図
まず、『フィレンツェ史』に書かれたマキァヴェッリ自身の手による全体的な総括を見た後、フィレンツェ史の流れや各時代への言及を取り上げてみたいと思います。
マキァヴェッリ自身による『フィレンツェ史』の要約
時の教皇、メディチ家出身のクレメンス7世に宛てた『フィレンツェ史』の献辞で、マキァヴェッリは『フィレンツェ史』の内容をこう要約しています。
マキァヴェッリが見たフィレンツェ史の特徴
マキァヴェッリがフィレンツェの歴史の最大の特徴を見て取るのは、都市国家内の度重なる党派対立でした。
この「諸々の都市における憎悪や分裂の原因を教えてくれる」党派対立について書くこと、そこから「教訓を手に入れる事で賢明になり、自国の団結を維持することができる」ようにすること、これが『フィレンツェ史』の目的であるとマキァヴェッリは「序言」で述べています。
この党派対立への言及が、『フィレンツェ史』におけるマキァヴェッリの政治思想の表明の大半を占めています。
マキァヴェッリの描くフィレンツェ史の諸相
フィレンツェ史の起点
今日フィレンツェの歴史が語られるとき、大抵は1115年から始まるようです。
(真偽不明ないくつかの都市の創設伝説を除く)
この年、トスカーナ女伯マティルデが後継者を残さず亡くなり、カノッサ家が断絶しました。
(かの「カノッサの屈辱」の舞台を提供したカノッサの城主としても有名です)
これにより、その領土内の諸都市が領主層の支配から独立する傾向が生じます。
フィレンツェもそのような諸都市の一つでした。
このため、今日ではこの年が都市国家フィレンツェが誕生した年とみなされることもあるようです。
しかし、マキァヴェッリはこのトスカーナ女伯の死には、重きを起いていません。
西暦1215年が、マキァヴェッリが注目するフィレンツェ史の最初の年になります。
この年、とある婚約破棄事件を機に、フィレンツェ内で貴族同士の流血沙汰が発生しました。
この際、イタリア全体のギベッリーニ党(当初は皇帝派)とグェルファ党(当初は教皇派)の対立がこの騒動と結びつき、フィレンツェ内にも党派対立が持ち込まれた、とマキァヴェッリは言っています。
その後、1250年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が亡くなった時機に、今日プリーモ・ポポロ(第一次平民)政権と呼ばれる体制が成立します。
この時こそ、体制が「自由を樹立した」=独立したとマキァヴェッリは表現しています。
フィレンツェのもっとも幸福な時期
イタリア全体における戦闘の帰趨により、第一次ポポロ政権は約10年で崩壊。
その後、政権を担当する党派は幾度か入れ替わります。
そして、1290年に今日セコンド・ポポロ(第二次平民)政権と呼ばれる体制が成立します。
この時、この政権を認めなかった貴族は「豪族」と認定され、政権に参加する資格を剥奪する「正義の規定」が成立します。
この政権こそ、マキァヴェッリは最大級の賛辞を送った体制でした。
この幸福な時期も、1300年に終わります。
ピストイアの白派と黒派の党派対立がフィレンツェ内に波及して、党派対立が発生したからというのです。
ナポリ王の庇護とアテネ公の追放
14世紀前半、神聖ローマ皇帝ハインリヒのイタリア来訪、ギベッリーニ党のルッカやピサからの外圧を受けて、フィレンツェはナポリ王ロベルト1世などグェルファ党の外部勢力の庇護を求めるようになります。
アテネ公グァルティエーリ(ゴーティエ)も、ナポリ王から派遣されてきた一人でした。
1342年、彼は民衆の支持によってシニョーレ(君主ないし領主)として選出されます。
しかし、シニョーレとなるとすぐに彼は支持を失いました。
結局、翌年には市民が蜂起、わずか10ヶ月の支配ののちに追放されてしまうのでした。
人々が蜂起した日は、聖アンナの日という記念日として現代まで残っています。
チオンピの乱
その後も、アールビッツィ家とリッチ家とが争うなど、ミラノや教皇庁との外交方針や戦争にまで党派対立は影響を与えます。
その対立の間隙をぬって、下層市民が政治参加を要求する「チオンピの乱」が1378年に発生。
党派対立は混沌の坩堝と化して行きます。
(先日の記事で長文引用した演説は、このチオンピの乱で叛乱をあおるものでした。)
勢力圏の拡大
1382年になると混乱は収束し、有力家による寡頭派体制が成立しました。
また、この体制のもとでフィレンツェは勢力圏を拡大しました。
メディチ家の支配
1420年頃からアールビッツィ家のリナルドに権力が集中するようになります。
この対抗馬として台頭したのがメディチ家のコジモでした。
1433年のルッカ攻略失敗を機に、コジモ・デ・メディチが政争に勝利し、ここからメディチ家の支配が始まります。
陰謀による危機的な状況もありましたが、結局は反メディチ派の排除が進み、メディチ家への権力集中は進行していきました。
イタリアの「破滅」
パッツィ戦争やフェルラーラ戦争など、いくつかの危機はあれど、イタリアは1450年代半ばから1494年まで総じて平和な時期を過ごします。
しかし、1492年のロレンツォ・デ・メディチの死をもって、この状況も終わりを迎えます。
ロレンツォ死去の翌年、ナポリ王と対立したロドヴィーコ・スフォルツァが、フランス王シャルル8世へナポリ遠征を勧告。
そして、1494年にシャルル8世がイタリア遠征を実施。
ここからイタリアは激動の30年間に突入することになります。
マキァヴェッリの『フィレンツェ史』も、ロレンツォの死を述べた上の文章で締めくくられるのでした。
余談:「イタリア」史の地理範囲と時代区分について
マキァヴェッリをはじめとして、グイッチァルディーニから現代のイタリア史に至るまで、1494年をルネサンス終焉を象徴する年と見ているようです。
シャルル8世のイタリア侵攻から始まるイタリア戦争で、西欧政治史の中央からイタリアが脱落する、と。
今回、フィレンツェ史を読んで感じたのは、この年で歴史を区切ることへの違和感でした。
イタリアにとって、1494年前後で事情が大きく変わったと見るよりは、
北部の内陸イタリアが政治的な自立性を発揮できた、14世紀から1453年頃までが例外的な時期と考える方が、全体像がスッキリ見えるのかもと思えました。
つまり、周囲の大国がさまざまな事情で身動きが取れない例外的な権力の空白期間に咲いた徒花としてルネサンスを見る、
そして、ナポリ王国をイタリアより地中海世界の地域として見る方が構図がスッキリする気がしたのです。
教皇庁のアヴィニョン捕囚(1309-1377)と大シスマ(1378-1417)と、いわゆる英仏百年戦争(1343-1442)は、イタリアのルネサンスの背景として言及されます。
そこに、ロベルト1世死去からアルフォンソ1世登位までのナポリ王国の混乱を加えた方がいい。
そして、現代でも北部と大きく異なる南部イタリアを「イタリア」と分けて歴史叙述した方がスッキリするように思えた次第です。
フィレンツェに所属するマキァヴェッリやグイッチァルディーニにとって、シャルル8世が侵攻した1494年は、たしかに「フィレンツェ」史にとって大きな転機でした。
長年フィレンツェを差配していたメディチ家が追放されたのですから。
しかし、シャルル8世の侵攻は、ナポリ王国史から見れば恒例の王位争いと言えますし、
そもそも翌年には撃退されてイタリアから撤退しています。
西欧史全体から見れば、ハプスブルク家カルロス1世登壇前の前座のようにしか見えない…
そんなわけで、1494年という区切り、「イタリアの破滅」というレトリックは、イタリア史がフィレンツェ史に引きずられていることの象徴のように思います。
それはきっと、『君主論』の最終章での「夷狄からのイタリア解放」という当時の常套レトリックが、19世紀にイタリア統一への情熱と読み違えられることと呼応しているのでしょう。
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