今回は、『フィレンツェ史』のなかの理論的記述、マキァヴェッリの政治思想が表現されたものを、自分なりに分類して抜粋したものになります。
『フィレンツェ史』読書ノート(注目ポイントの引用)「政治思想」篇
支配領域の拡大と従属都市への対応について
マキァヴェッリの時代のイタリアの国家とは、まだら状の国家でした。
都市が中心となって周辺領域をまとめ、その都市たちを全領域の中核となる都市が束ねる。
各都市が独自の法や慣例にしたがっており、中核都市が自分の勢力圏を一元的に支配できるわけではない。
時には、中核都市に反旗をひるがえす都市も出て来る。
後に絶対主義国家が克服しようとする一種の連邦体制のようなこの状況が、マキァヴェッリの政治論の前提です。
(その意味では、現代の我々はみな絶対主義国家のもとで生きています)
このような「国内」状況では、今日なら国際関係に見えるような都市際関係が、国内政策として重要でした。
『フィレンツェ史』の前面には出てきませんが、フィレンツェは支配圏を拡大させてきた都市です。
この拡大した領域内政策のツケが、1494年以降のピサ離反など後々で効いてきます。
マキァヴェッリも従属都市対応について言及しています。
従属都市への対応
1340年代に複数の従属都市がフィレンツェの支配下から離脱した際の対応について、こう述べています。
(歴史的に存在していない対応方針なので、マキァヴェッリの思想に由来する内容と推定されます)
一方、反旗をひるがえした都市ヴォルテッラに対して、宥和ではなく戦闘によって屈服させた事件について、歴史上の人物に仮託して述べた箇所もあります。
これらの引用を見ると、マキァヴェッリは宥和政策の信奉者に見えます。
しかし、先日引用したマキァヴェッリの戦争観を見ると、戦闘によって屈服させるなら相手を徹底的に破壊すべきで、破壊せずに戦闘と宥和の間の中途半端なことは怨恨を残すので避けるべきというのが真相のようです。
植民政策
むしろ、マキァヴェッリの理想とする国内政策は植民都市を築くことです。
相手を滅亡させた地域、あるいは敵から割譲させた地域に植民都市を築くことを推奨します。
経済的なことに言及することが少ないマキァヴェッリが、人口論を通して貧困に言及している数少ない箇所でもあります。
また、人口については、黎明期のフィレンツェが近隣の都市フィエーゾレを破壊して吸収することで人口を増やし、発展の礎となったことも見落とせない点です。
党派対立について
『フィレンツェ史』の全体の記述を覆っているのは、党派対立です。
前回の記事で概観したフィレンツェの歴史でも、党派対立が繰り返されていました。
永続する党派対立
党派対立によって団結できないことは問題です。
しかし、党派対立がなくなることで、優勢な党派が傲慢に振る舞うことができるようになってしまうことも問題です。
また、党派対立は、一方の党派が他方に勝利するという形で終結することは好ましくないとマキァヴェッリは言います。
そのような党派対立の終結は、勝利した党派の分裂の始まりであり、次の党派対立へのインターバルでしかないからと見ているからです。
党派対立の終息と自由の確立
では、一方の党派の勝利ではなく、どのように党派対立は終息するべきとマキァヴェッリは考えるのか。
一方の党派の勝利ではなく、双方の対立をおさめるような法の制定によってこそ、安定した秩序が確立するとマキァヴェッリは言います。
貴族の寡頭政も平民の民主政も、一方が勝利して支配しようとしても、その立役者の力量に依存する以上は、体制として安定せず、別の政体へと変化しうる。
それを回避するなら、法によって対立をおさめるしかないわけです。
(とはいえ、この「法」とやらがどんなものなのか、ここでは具体的には不明です。
また、そもそも「双方が妥協する」というのは解決法の提案になっていない疑いもあります。
妥協できないないほど党派対立が根深くなったからこそ、一方の勝利に行き着くしかなくなったとも考えられるのですから。
妥協しないことが党派対立の消滅に繋がらないとしても、だからといって妥協できるかどうかは別問題です)
古代ローマとフィレンツェの党派対立の比較
貴族と平民との党派対立が、話し合いと法によって抑えられた古代ローマと、一方の勝利によって決着したフィレンツェが比較されます。
平民が貴族と支配にともに与ろうとした古代ローマと、平民が貴族から支配を奪おうとしたフィレンツェとが対比されています。
また、両者の差異が、武勇の存続(イタリアでの傭兵制の導入)、市民間の平等/不平等、政体の変化と結びつけられています。
党派とはなにか
貴族と平民、支配する側と支配される側の妥協による法の制定という解決策以外にもマキァヴェッリは注目します。
党派とはなにかを規定することで、良い対立と悪い対立を分けています。
(これを現代にそのまま適用した場合、いわゆる利益誘導政治とポピュリズムの対立のような話になってしまいそうです。
国家が領域を広げ、産業化が進んだ社会では、何が公益なのかは明確ではなくなります。
それをふまえると、現代への応用の難しい話のようにも思えます。)
単独者支配について
『君主論』での君主政論と『ディスコルシ』での共和政論との関係がどうなっているかというのは、マキァヴェッリの政治思想解釈で扱われる定番の命題となっています。
『フィレンツェ史』は、共和国フィレンツェについて書かれたので、共和政(特に党派対立)の話が多いですが、君主政など単独者支配についての言及もいくつかあります。
君主政の欠点
『フィレンツェ史』には、君主ミラノ公の殺害を教唆したガチガチの共和政主義者が登場しています。
力量ある人物への君主たちの対応については、マキァヴェッリの主張と重なってもいます。
しかし、マキァヴェッリはこれほど単純には君主政や共和政を見ていないように思われます。
ミラノ公国の場合
ミラノ公ヴィスコンティ家が断絶した際、一時的にミラノは共和政を樹立しました。
登場人物の口を借りてですが、この共和国の行く末についてのコメントが『フィレンツェ史』にはあります。
ここでは、君主政か共和政かの問題は、それを採用する人々との兼ね合いで考えられています。
そして、実際に戦争が差し迫ると、ミラノの民衆は君主政を選択するのでした。
フィレンツェのアテネ公の場合
フィレンツェで君主になろうとしたアテネ公の場合はどうでしょうか。
君主になることを彼に思い止まらせるために行われた長文の(創作)演説が『フィレンツェ史』にはあります。
自由を経験した都市においては、君主政の導入が困難であること、もし君主政を実現しても人々が支配者の栄光を自身のこととして分かち合えないことが述べられています。
この演説に対するアテネ公の反応も続いて記述されています。
君主が党派対立を抑制するという理屈が述べられています。
これが直接話法の演説ではなく、間接話法で書かれているのをどう評価すればいいのでしょうか。
この理屈で君主政を正当化することをマキァヴェッリが好ましく思っていなかったことを示すのか、それとも単にアテネ公の行動がこの発言と一致しなかったからなのか、判断に迷うところです。
ちなみに、その後のアテネ公の記述は、アリストテレス『政治学』が描くような僭主のステレオタイプにのっとったものとなっています。
メディチ家の位置づけ
フィレンツェを牛耳ったメディチ家を、マキァヴェッリが『フィレンツェ史』の中でどう位置づけているかは、読んでいてもいまいちハッキリしないところがあります。
その名声の獲得方法は、悪しき党派対立を招く、共和国にとって害となるやり方の例になっています。
ただし、これらはコジモの死後の党派対立との関連で述べられています。
共和政での党派対立という文脈の延長なので、それはメディチ家の君主化という文脈と繋がるかどうかはまた別問題です。
敵対党派ではなく陰謀の対象になったという点では、メディチ家は従来の共和政の枠組みからははみ出しているのでしょう。
ピエロが長男ロレンツォをローマの名門の娘と婚姻させたり、ロレンツォが次男ジョバンニを枢機卿にしたり、メディチ家が「他家から抜きん出ること」を推し進めたのは確かです。
これらは当時でも君主化と受け取られることでした。
ただ、これらの言及からは、メディチ家が君主化を狙ったとまでは言えても、君主のように支配したとまで言えるわけではないのです。
メディチ家支配自体の位置づけがハッキリ読み取れないと私が思ったのは、共和政以上君主政未満なこの中途半端な位置づけによるものです。
権力の獲得と維持
メディチ家当主のピエロが死去し、若輩のロレンツォたちだけが残されたとき、フィレンツェの有力者が、メディチ家を擁護しました。
その理由は、国家の安全の問題でした。
ミラノの君主政維持や、共和国へ君主政を導入する困難についての言及と合わせると、近代以降なら保守主義に分類されそうな言説です。
権力(新しい都市や国家)を獲得する話がメインの『君主論』でも、獲得より維持の方が容易であるという話は出てきます。
ただし、国内融和や外国への対抗という理由は、君主の生存戦略と結び付いた『君主論』とは、また少しだけ毛色が異なっている印象を受けました。