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Tweet Archives 数学と哲学-形而上学

「とみなすことができる/操作可能性(対応可能性)」は、数学全体(数学の全領域)の指導理念でもある。数学全体の先端部に位置する「圏論」はその理念の結晶体「とみなすことができる」。圏論のまさに最中枢に位置する「米田の補題」は、「対象Aは、「Aに対してAの他のあらゆる対象Xとの関係性を対応付ける操作」とみなすことができる(「Aに対してAの他のあらゆる対象Xとの関係性を対応付ける操作」からAを復元できる)」という含意を持つ。数学の新たな領域(新たな数/演算/空間が基礎)が切り開かれるとき、必ずこの「とみなすことができる/操作可能性(対応可能性)」がその橋渡しをしている。もちろん物理にも言えるが哲学にも同じことが言える。ただし哲学-形而上学(のみ)はその領域を内側から破綻させる力を記述できる。哲学-形而上学は、この「とみなすことができる/操作可能性」という次元/場そのものを標的とするからだ。なお、「とみなすことができる/操作可能性」を言い換えれば、「実際にそうする(その様な対応づけを行う)ことができる/可能である」となる。この「実際にできる/可能である」には、その最も基底的な<次元/場>における超越論性――現に可能になるという事態それ自体の力が反響している。カントが『純粋理性批判』において語ろうとしていた超越論性とは、この現に可能になるという事態それ自体の力であるだろう。




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