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Archives 国家論 1990年2月に私の友人と滞在していた激動期のプラハで書かれた英文書簡を起源とする

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それは、始まりも終わりも無い旅から切り取られた断片だった。そんな旅の切れ端には、しばしば新鮮な贈り物が転がっているものだ。「日本人だ」という極く低い調子の囁きと、それに伴う「日本人であること」への眼差し。私にとって、そんな出逢いの経験が最も強く印象付けられたのは、カフカがその生涯の殆どを過ごしたプラハだった。過去の様々な建築様式が重なり合って残存し、持続する民族の伝統が記憶の奥深く封じ込められている奇跡の街。彼方からの多様なアジアの波が深く穿たれた情念となって流れ込むモスクワとは違って、「ヨーロッパ」という生きた観念が今再び力強く横溢し始めたとしても何の不思議も無い街……。

 
1990年2月の半ばに、このプラハで私に次の様な問いかけが生まれた。私はその問いかけの最初の素描を、*月**日の夜、私が友人と二人で滞在していたプラハ郊外フチコバ地区の工科大学教授宅のアパートの寝室で書き留めた。今思えば、この問いかけは、あのカフカの『城』と深く反響し合っていたのだ……。

 
――私はささやかな問題に促されてここへやって来た。カフカは不眠症で死ぬ思いをしたらしいが、何故か其処だけはどうしてもスペアが利かない私の体内の神経細胞の極く一部が、もう永いこと不眠症に罹かってしまっている。ところで、極くささやかな旅であっても、旅の最中で「問題を移動させること」は「民主主義」と呼ばれるものにとって大切なことだろう。なにしろそこでは、「民主化の波」と呼ばれる一連の出来事が生まれていたからだ。そこで試みにこう問いかけてみよう。この実験的な問いかけの作業が、我々によってこれ迄「民主主義」と呼ばれてきたものとどう関わるのかは、それ自体一つの問題となる筈だ。
 
問いかけ:―――民主主義と、「自己の支配を誰かが、或いは何かが代理すること」とはどう異なるのか?
 
ここで、試みにあの懐かしの「国家哲学」を振り返ってみよう。確かにそれは超年代物とはいえ、今や「国家」というものは過去のものになった等と語っている一見幸せな、しかし驚くべき危険に晒されている人々のことは忘れておこう……。

 
さて、我々によって「国家」と呼ばれるものは常に、我々全てが規則化/統御の装置に連結することを要求する。この装置においては、或る特異な自己形成プロセスの恒常的な再生産が目指される。即ち、この装置は、それがその都度出逢う自己組織化因子が常に「自己の支配を誰かが、或いは何かが代理すること」を是認しつつ自己形成する様に訓練する。それは、こうしたプロセスに応じて規則化/統御されない一切の生存の表現・実践を挫折させることを目指す。
 

「国家」とは、恒常的な連続性を目指すこうした規則化/統御の装置において、自己の支配を代理される全ての自己組織化因子が、常に同時に代理する誰かでもあるということの根拠である。つまり、自分で自分を支配することを代理される私は、改めてその代理された自分自身の支配を請け負う「我々=国民」であるということだ。
 

一方、生存の表現・実践は、その本性上自由を目指す。例えば、それは規則化/統御の装置による捕獲や矯正を嫌い、あくまでもそれらに抵抗する。逆に自由は、その本性上生存の表現・実践として現実化する。そしてこの生存の表現・実践は、どんな「同じもの=Xであること」という仕組みにも完全に還元され得ない……。

 
さて、何らかの自己組織化因子が規則化/統御の装置によって「同じもの=Xであること」という仕組みに連結されるプロセスは、この自己組織化因子、即ち「我々=X」によって「国家プロセス」と呼ばれ得る。
 
……ところで、「同じもの=Xであること」という仕組みと連結された自己組織化因子として自己形成・訓練プロセスの内にある「X=日本人であること」、「X=ユダヤ人であること」、「X=ピューリタンであること」、「X=黒人であること」、「X=アラブであること」、「X=アイヌであること」、「X=***人であること」、「X=ムスリムであること」、「X=女であること」、「X=男であること」、「X=レズビアンであること」、「X=ゲイであること」、「X=トランス・セクシュアルであること」、「X=ヒトであること」、「X=狂人であること」、更には「X=***族であること」等々は、互いに異なりながらも相互に作用し合う様々な生存の表現・実践として生成する。――即ち、闘争、戦争、補食・同化、補食・異化、感染、寄生、共棲、癒着、対消滅その他。だからといって、これらの生存の表現・実践が「同じもの=Xであること」という仕組みに還元されてしまう訳ではない。これらは各々様々に異なった力、方向、速さを持ったプロセス=ベクトルとしてその都度生成する。そして、これら生存の表現・実践の各々は、殆ど無限に多様なその都度の生成プロセスを内包し、それらを束ね、訓練している。

 
さて、このその都度の生成プロセスに先立っては、最早どんな「同じもの=Xであること」という仕組みも想定出来ない筈である。だが、規則化/統御の装置は、その都度多様な生成プロセスを内包している生存の表現・実践を、本来存在しない筈の「その都度の生成プロセスに先立つレベル」によって代理してしまうのである。即ち、「私=我々=ゼロ」という仕組みの誕生。あらゆる生存の表現・実践が、この仕組みによってゼロ或いは不在化していく。例えば、自分以外の者によって代理・代表された戦いの代理・肩代わりを引き受けることは、どんな生存の表現・実践にとっても余計であり、不利益なものである。「国家プロセス」とは、あらゆる生存の表現・実践が自己形成・訓練を代理された上で、改めてその代理された自分自身の支配を請け負うことを可能にするものである。
 
あらゆる《自己訓練プロセス》がこの意味での「国家プロセス」となり得る。それは、あらゆる生存の表現・実践を自己-分裂へと駆り立てる。しかもその自己-分裂を、無際限の代理プロセスにおいて引き延ばしながら陰蔽していく。従って、もし仮に「民主主義」と呼ばれるものが、あらゆる生存の表現・実践に開かれたものとして生成するのならば、それはより基礎的だとされる観念、例えば、特定の利害関係者にとって都合のいい仮説に基づく「共同体」に従属する政治システムではあり得ない。それはそもそも「政治システム」などといった不可解なものでは無い筈だ。仮にここで「理念」が表現されているのだとしても、この「理念」は、その都度の生存の表現・実践として「支配を誰かが、或いは何かが代理すること」という装置にその都度抵抗する限りでのみ、その生命と創造の力を実現していくのだ……。

 
永い不在の時の流れを経た後で、今ここを超えて、私は再びあの端緒の問いかけと出逢う。それは、始まりも終わりもない旅から切り取られたささやかな断片として、《我々》の没落と共に生成する者たちへの呼び掛けとして、ひどく鮮やかな姿を現したのだ。カフカの『城』をも飲み込む超管理回路の直ぐ傍らに<民衆>の影が延びる。


以上の作品のオリジナルは90年代半ば頃に書かれた散文草稿『ゼロ-アルファ』のごく一断片である。後に一部改変し散文詩形式にして詩誌「潮流詩派」に掲載された。さらに改変して拙著『カンブリア革命』第四章「未来の記憶から今ここへ」に収録された(本記事の記述はさらにそれを一部改変している)。ただしその最も端緒の草稿は、1990年2月に私の友人と滞在していた激動期のプラハ(フチコバ地区の工科大学教授宅)で書かれ、当時のライプチヒ社会民主党本部のポストに直接投函された英文書簡である。
 
 


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