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改革派ユダヤ教徒としてのジュディス・バトラー『問題となる身体』

タイトル:本訳書の原書への2003年4月のレビュー再掲
Reviewed in Japan on May 28, 2021

以下に過去の私のレビューを転載する。なお原書は刊行時概ねリアルタイムで読了したが翻訳書は読んでいない。これが翻訳されるまでこれほどの時間がかかったのに驚いている。私にとっては90年代の思索の素材である。下記に転載した一部に「2020年06月08日(月)現在米国を始めとしてジュディス・バトラーにインスパイアされて活動している者たち(現時点での本書の読者も実はそうなのだが)は、近未来米国において本格的に起こるであろう途轍もなく巨大な変容の担い手「ではない」。それはむしろ逆ベクトルの者たちである」と書いたように、三周回遅れである。


転載開始
Reviewed in Japan on April 17, 2003


驚くほど長く、そして回りくどく思えるほどに厳密さにこだわったセンテンスが続く1993年出版の本。主にジジェク(ラカン)とクリプキを論じた7章から引用する。

例1.「批判的に見れば、遡及的に固定指示としてのあらゆる命名行為のモデルとなるこの端緒の命名儀式/洗礼という場面は、一人の人物を宗教的な血統/家系へと呼び出し組み込むこと(interpellation)を通じたその人物への指示対象の固定であり、同時に、父なる神がアダムに対して行った原初的な命名行為へと遡り反復する父の家系をその人物へと教え込む〈命名行為〉なのである。従って、この指示対象の〈固定行為〉は、ある原初的な固定指示行為を引用し召喚すること(citation)であり、息子に対する命名行為が神に裁可された人間の共同体における彼の存在/生存を創始する神的な命名プロセスの反復である」(p.212)

例2.「自らの存続を引用の連鎖(citaional chain)の未来に依存する意味するものによって可能になるものとして、エイジェンシーは、反復可能性における隙間/切れ目(hiatus)、反復を通じて自己同一性の設置へと強いることであり、まさにこの自己同一性が執拗に排除しようとする偶然性、不確定な合間/隔たり(interval)を必要とする」(p.220.)
とはいえ、彼女の本でこれ以上にスリリングなものは多分これまでになかったし、これからも生まれないのではないか。
2003年レビューここまで
付記
彼女の思想的・哲学的背景を知る参考のために、彼女に関する私自身のツイート(一部簡略化した)を以下に転載する。

以下転載開始
2020年06月08日(月)
現在米国を始めとしてジュディス・バトラーにインスパイアされて活動している者たち(現時点での本書の読者も実はそうなのだが)は、近未来米国において本格的に起こるであろう途轍もなく巨大な変容の担い手「ではない」。それはむしろ逆ベクトルの者たちである。
つまり彼女たちまたは彼らは、その恐るべき米国の巨大な変容の津波の最後の防波堤になるべく死にもの狂いで行動している。その恐怖を察するに余りある。果たして米国だけだろうか? 言うまでもなくグローバルな事態だ。ただし主な舞台は欧米でありあくまでも米国が変容の焦点になる。

2019年02月22日 23:30:57
つまりジュディス・バトラーはイエス・キリストそれ自身に極めて接近したイエスの分身としての改革派ユダヤ教徒なのである。そしてイエス・キリストは仏陀それ自身に極めて接近した仏陀の分身でもあった。

2019年02月22日 23:21:14
これまでのスレッドで引用してきた「哀悼可能性の配分への批判」を初めとするジュディス・バトラーの全ての言葉を振り返るならこのことは明瞭である。

2019年02月22日 23:16:10
ここであることに気づかないだろうか? ここでのジュディス・バトラーのポジションは、まさに「改革派ユダヤ教徒」として出発し極めてラディカルな「保守派(正統派)ユダヤ教(徒)」批判を展開していたイエスのポジションに類比的なのだ。

2019年02月22日 23:06:55
つまり上記 Bodies That Matter アマゾンレビューの引用箇所におけるジュディス・バトラーのクリプキ批判は「改革派ユダヤ教徒」による「保守派(正統派)ユダヤ教(徒)」批判として読むことが可能なのだ。

2019年02月22日 16:19:00
このジュディス・バトラーの「哀悼可能性」概念を考えるために、 ドラマThe Walking Dead
は格好の素材になるだろう。それはあらためて米国を考えることでもある。

2019年02月22日 07:33:45
ジュディス・バトラーは改革派ユダヤ教徒であるようだが、彼女がクリプキをこのように読める重要な理由またはそれを可能としたファクターはまさにそれだろう。引用の連鎖や反復、隔たりといった鍵概念の発明とこうした使用。しかしそもそもクリプキが丸ごとユダヤ教の系譜だ。

2019年02月21日 07:38:04
ジュディス・バトラーは記述レベルでどれだけ成功したかどうかは別にして、権利問題をその都度の経験の事実それ自体として生きかつ考えることに自らの理論と実践を捧げている。それが彼女が本物の哲学者である理由である。

2019年02月19日 19:52:15
ジュディス・バトラーとフーコーの共通点は(またバトラーがあれほどフーコーに惹かれた理由は)両者とも自らの本格的な思考活動をドイツ哲学を読むことから始めたということである。両者とも自らの思考言語(特にフーコーの場合は同時に詩的言語)を母語とドイツ語の複合体として磨き挙げた。

2019年02月19日 19:38:36
ある方も語っていたが、つくづくジュディス・バトラーは変わってない。何十年経っても。それが彼女の本物さと言うか素晴らしさである一方、現在の状況における痛切な弱点にもなるのだが。

2019年02月19日 12:51:32
ホッブスの社会契約理論批判の文脈で:「抗争は相互依存性の一側面として考えられる。」 ジュディス・バトラー の言葉

2019年02月19日 12:27:26
哀悼可能性とは、ある生の喪失が対象化可能であるのに対し、ほかの生はその対象化可能性が少ないか、あるいは全くないことを意味する概念である。」  ジュディス・バトラー の言葉
この批判に類比的な作業を私は「汎優生主義」批判の形で行った。

2019年02月19日 12:21:16
「生の価値が不平等に配分される世界にある中で、私たちは生政治的なーーあるいは死-政治的なーー哀悼可能性の配分への批判を必要とする。」  ジュディス・バトラー の言葉

2019年02月19日 12:14:35
「その世界では、すべての生は生きている世界に等しく結びつけられたものとして価値を持ち、生きているものと死んでいるものの両方に負うところがあり、そして、世界を再生させる使命を帯びている。」  ジュディス・バトラー の言葉

2019年02月19日 08:21:43
再生のダイナミックな条件は、たとえどれだけ苦難と困難に満ちていたとしても、私たちの生がよってたつ条件であり、よりいっそう私たちを生きさせてくれる世界を再生産するために守らなければならない条件である。」  ジュディス・バトラー の言葉

2019年02月19日 08:04:52
ジュディス・バトラー の言葉: 「私が発見したのは、自分が住む世界の再生が私の働きにかかっており、私の働きは世界の再生なくしてはないということだった。」

2019年02月19日 07:38:27
「セクシャリティとジェンダーの領域で既存の学問領域が発揮している権力を失効させるためには、新たな主体性を形作ることが決定的であった。」
以上転載終了

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