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自分を大事にすることからはじまるマインドフルネス

自分を大事にしてもらうことが、どんな感じがするのか?わたしたちの多くが知らない。

だから自分を大事にすることが、どんな感じがするのかもわからないでいる。

これは大問題だけど、意外と放っておかれていることです。実のところ、わたしたちは相当壊れている。

傷ついている人に正論を突きつけても、意味はない

傷ついている人に向かって、「瞑想の目的は無常・無我・苦を理解すること」なんていう言葉は響かない。

正論を突きつけても、刺さらない。だけど何を隠そう、そんなバカな提案をしていたのは他でもないわたしです。

ブッダだったらきっと、そんな提案はしないでしょう。もしかしたら現代のわたしたちには、微笑んで花の香りのするお茶を差し出すだけかもしれません。

ブッダが解いたと言われる説法が84000種類もあるのはそのためです。ブッダは必要な人に、必要なエッセンスを届けることが最も重要だと考えていました。

だから今のわたしたちに必要なエッセンスは、まずは自分を大事にすることです。

ダライ・ラマには自尊心に高低をつける概念がなかった

普段は南国でのんびり、ぼっち暮らしをているわたしですが、ここ数年オンライン化が進んだことで、日本のクライアントさんや生徒さんと接する機会が増えました。

そんな中で、たとえ自分が言っていることが正論であったとしても、何か的外れだなあと自省することが続く毎日。長年の海外生活でつい忘れてしまっていたのですが、人と関わっていく中で、昔の傷ついていた自分をたくさん思い出しました。

1970年代のその昔、ダライ・ラマ法王がとあるカンファレンスに出席したときのことです。あるドイツ人の若者がした質問の意味が、法王には理解できなかったという逸話があります。

その若者は真剣な眼差しで「僕は自尊心が低いのですが、どうしたらいいですか?」と聞きました。ですが法王は「自尊心というのは自分を大切に思うことだから、それに高いも低いもないでしょう?」と答えたのです。

その不思議な矛盾に法王ご自身も、カンファレンスに出席していた科学者や心理学者も驚き、一週間とことん自尊心について話し合ったと言います。法王には自尊心に高低をつける概念がないことや、現代人が自分を大切にできない原因などを徹底的に話したそうです。

法王は当時、現代人が自分の生を尊ばないという発想に至っていることを知り、大変ショックを受けたそうです。それ以来「まずは自分を大切にして、身の回りの人から大切にしていくこと。それが平和への道」とメッセージを発信するようになりました。

法王が常々そう仰るのを聞いて、正直なぜそればっかり言っているのだろう?とわたし自身が昔の法王と同じように不思議でした。ですがそれは、法王が人々に必要なエッセンスが何なのか、ちゃんと理解していたからです。

悪いところがあるとゴキブリのように叩く社会の傾向

ここ最近、オリンピックの楽曲提供の件で、コーネリアスの小山田圭吾さんが騒がれていることを知り、ショックでした。

彼が学生時代に犯した虐待的なことを擁護するつもりはさらさらないのですが、それに対する世間の批判の仕方も虐待的で、外野から見ているわたしには映し鏡にしか見えないというのが正直な気持ちです。

世の中は不貞でもいじめでも、悪いことをしたらまるでゴキブリを叩くかのように、人を潰れるまで叩いて再起不能に追いやることが正義だとしているように見えてしまいます。(正直ゴキブリの短い一生も叩かないでほしいです。)

「悪いことを一回でもしたら人生は終わりだから、わたしたちは完璧でいないといけない」というのが暗黙のルールです。ですがそんなことを自分の子供に教えている人はいないと思います。流行りの教育書にだって「子供を一人の人間として尊重し、寄り添うこと」と、真逆のことが書いてあるのですから。

「完璧でいろ」というブラックメールに子どもたちは気づいている

口では尊重と言いながらも、集合意識では完璧を要求してしまっている。まずはわたしたち一人一人がこの理不尽な要求が自分の中にも潜んでいることに気づいて、認めていかなければ堂々巡りです。

子どもは純粋で多感なので、言葉で言われなくても「完璧でいろ、さもないと潰す」というブラックメールを、空気から受け取っています。それは大きなストレスで、電磁波のようにじわじわとわたしたちを蝕んでいくものです。

小山田圭吾さんがイジメをしていたのも中学生の頃だというから、子ども時代の彼がどんな抑圧感情を持っていたのか想像してみてください。何度も言いますが、彼を擁護している訳ではありません。自分ごととして考えてみればすぐに分かることです。

あなたも子どもの頃、大なり小なりこのブラックメールに脅されて、世の中に対する何らかの嫌悪感を感じていたのではないでしょうか。

むしゃくしゃするか、ビクビクするか、パニックになるか、ウツになるか、引きこもるか、自分を装うか、凶暴化するか、依存するか。

表現は人それぞれです。表現が違っても、少なからずわたしたちは抑圧されて大人になっています。残念ながら尊重ではなくて。

溺れる者は藁をもつかむ、という状態のアイデンティティ

ここで親が悪いとか、社会が悪いという責任の所在を探す癖を一旦置いて、

わたしたち自身も、わたしたちの親世代も、子どもの頃に本当の意味で尊重されることを体験せずに育っているのだと考えてみてください。

建前と倫理観だけ押し付けられて大人になってしまうことがどんなことなのか、想像するのは難しいことではないと思います。

すると「誰かが悪い」という理論が成り立たないということがわかるはずです。

みな傷ついた状態が連鎖する中で、これ以上傷つかないように、「拠り所」となる何らかアイデンティティを掴もうとします。それは正義だったり、被害者意識だったり、無関心だったり人それぞれです。

こうして根本原因の構図が見えてくるはずです。

どれもイヤ、でもどうしたらいいのかわからない、というのが子どもの本音

わたし自身も日本で育った学生時代は嫌悪感の塊でした。

世の中の何とか藁に掴まっている人たちに揉まれながら、大人になるにつれて混乱は増していきました。

どのロールモデルもイヤだという敵意や嫌悪感に苛まれて、大人になるのは嫌だと思っていました。わたしの居場所なんかないと感じて、20代のはじめにとうとう海外へと飛び出してしまいました。

「どれもイヤ、でもどうしたらいいのかわからない。」と思っている子どもはたくさんいるのではないでしょうか。混乱の中で傷ついて、そして自分の無力さに落胆したのはわたしだけじゃないはずです。

「子どもは」って書きましたけれど、大人も同じ道を辿ってきたのだから、そういう気持ちは分かるのではないかと思います。

わたしたちに必要なのは、尊重体験です。わたしたちは体験を通して尊厳を取り戻さないとなりません。

尊重されているというのがどういう感じがするのか、知らなければ、生きた心地はしないし、相手を尊重することができません。

そんな状態で慈悲や利他を持ち出しても、ただの偽善にしかならないですから。

まずは自分を大事にすることを、他でもない自分からはじめる

自分自身を抑圧している状態だと、不安や怒りなどの感情に任せて日々の選択を重ねてしまいます。それがベストチョイスでないことは誰でも分かることだと思います。

本当に選びたいものからどんどん離れていくと、本当に何が選びたいのかだんだん分からなくなっていきます。

意志と言葉と行動(身口意)がバラバラになって、混乱して生きることの価値が分からなくなります。そして起こってくる重い感情に覆われて、自分の感情の処理で精一杯。

そんな状態だと、他人や他の生き物や環境を大切にするというコンセプトを道徳的に理解できたとしても、実行する余裕がありません。

だから余裕を作るために、自分を大事にすることを今ここで選ぶ、まずはそこからです。

他の誰でもない自分が選択すること。ここがスタート地点です。ただその選択を日々積み重ねて定着させるのです。

自分を大事にすると、どんな感じがするのかという実感を重ねると、自然に身の回りを大切にできるようになってきます。

その感覚が定着したら、心が元気なしるしです。心が元気になったら、きっとブッダは微笑んで無常・無我・苦の話をしてくれるでしょうし、わたしたちも喜んで聞き、理解することができるのだと思います。

Aham avero homi
Abyapajjho homi
Anigo homi
Sukkhi attanam pariharami
わたしが敵意や嫌悪感から自由でありますように。
わたしが敵意や嫌悪感から起こる感情から自由でありますように。
わたしが敵意や嫌悪感から起こる物理的痛みから自由でありますように。
わたしが自ら平穏を選び、その選択を積み重ねていくことができますように。
Metta Bhavana 慈悲の瞑想、冒頭部分の直訳

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