見出し画像

『ガンニバル』の私は正しい!という演技。

邦画新世代がついにキタ。

ドラマ『ガンニバル』、第4話まで一気見しました。面白い!

主演の柳楽優弥が『浅草キッド』に続いてすごくいいし、監督はさすがの人間描写の『さがす』『岬の兄妹』の片山慎三。脚本は『ドライブ・マイ・カー』の大江崇允、プロデューサーも『ドライブ・マイ・カー』の山本晃久。
これ完全にサムライジャパンというか、世界を攻めに行く布陣ですよね。だって柳楽優弥といえば2004年にカンヌ映画祭で史上最年少14歳で主演男優賞をとった世界的に有名な俳優なわけで、片山慎三監督はかつて単身韓国に渡ってポン・ジュノ監督の下で演出を学んだ監督なわけですから。完全に世界を獲りにいってます。

で、実際に出来上がった『ガンニバル』はまさに2020年代の世界標準そのもので、特に人物やコミュニティの描き方が素晴らしい!
いや~邦画新世代を感じました。

ボクが『ガンニバル』に邦画新世代を感じたポイントは2点。
「21世紀型のリアルな人物表現」「文化の衝突の描写」です。

「21世紀型のリアルな人物表現」

柳楽優弥の芝居がいいんですよ、不安定で。ドキドキさせるんです。
『浅草キッド』のビートたけしの役がまだ抜けてないの?ってくらい『その男、凶暴につき』でビートたけしが演じた主人公の我妻を彷彿とさせるんです。

柳楽君はインタビューで「『ディストラクション・ベイビーズ』に出演した時は『その男、凶暴につきの』DVDを持ち歩いて、繰り返し見ていた。」と語っていて、実際その映画ではその我妻のように突発的に暴力を爆発させる恐ろしい男を演じてましたが、今回の『ガンニバル』での柳楽君の演技はまたさらに我妻度高くなってます。

「普段は温和で愛情深い性格の人物なんだけど、スイッチが入ることで暴力が発動してドライブしてゆく」感じ、めちゃくちゃ我妻っぽいんですよね。

ボクは1989年に『その男、凶暴につき』を劇場公開で観た時、犯罪者たちに対してメチャクチャ暴力的なのに、同僚の刑事たちに対してはニコニコおどける我妻に「キャラがブレてるのでは?」と感じたのですが、今から考えるとあれは本当にリアルな芝居だったなあ、と思うのです。
当時はキャラがブレない事が大切だと言われてたんですが、でもだって普通の人間っていろんな顔を持つもんじゃないですか。目の前にいる相手によって、居る場所、状況によって別人格か?っていうくらい振る舞いが変わりますよね。やはりビートたけしのリアルの感覚はめちゃ早かったんですよ。

で『ガンニバル』の柳楽優弥も、相手や場所、状況によって別人格か?ってくらいダイナミックにふるまいが変わっています。

それが同じシーンの中でも状況に合わせてどんどんシームレスに変わってゆくのが凄くリアルで、見ていてヒリヒリ、ドキドキするのです。

柳楽君の芝居でボクがただ一点だけ気になったのは・・・吉岡里帆さん演じる奥さんとの距離感。2人きりのときの奥さんに対する会話のトーンがやさしい旦那過ぎていて、距離感が遠いように見えるのだけど・・・インタビューで柳楽君自身の家族のことを考えながら役作りしたと言っていたので、これがリアルなのかな?みなさんはどう感じました?
(コメントいただけると嬉しいです)

「文化の衝突の描写」

『ガンニバル』は都会と田舎、そしてそのさらに奥地。3つの文化圏の衝突の物語でもあります。

『ガンニバル』と同じく都会と田舎とそのさらに奥地の文化圏の衝突の物語で、しかも同じく食人をテーマにした名作映画に、1974年のトビー・フーパー監督の大傑作映画『悪魔のいけにえ』があります。
いや正直『ガンニバル』って2020年代型の『悪魔のいけにえ』でしょ。だって「あのひと」っていう大男、完全にレザーフェイスじゃないですかw。

『悪魔のいけにえ』って何度も何度もリメイクされたんですが、どれも表面上を新しくしただけの劣化コピーだったんですが、この『ガンニバル』は見事なリメイクだと思うんですよね。
なぜなら『悪魔のいけにえ』の「都会と田舎とさらにその奥地の3つの文化圏の衝突」っていうテーマが見事に2020年代的な視点で描き直されているからです。

この同テーマの2022年の作品と1974年の作品、違うのは『悪魔のいけにえ』は都会人の視点で展開することです。「テキサスの田舎って怖ぇ~っ」という物語なので、都会の人間は常識的で、田舎の人達はみんな非常識で意地悪に描かれるし、さらにその奥地に住んでるレザーフェイス一家に至っては完全に全員「狂人」として描写されています。

それに対して『ガンニバル』は都会の視点と田舎の視点、そしてさらにその奥地の視点がなるべくフラットに扱われていて、3つの文化圏のどれも狂っていない、もしくはどれもが狂っている!と描こうとしています。
だからこそ文化圏の衝突が描けるんですね。

違った文化圏の人間同士が「あいつら非常識だ」とお互いに感じること、それこそが人種差別であり、ジェンダー差別であり、宗教問題であり、分断問題であり、そしてハラスメントの本質だと思います。

『悪魔のいけにえ』が都会人の視点で田舎の人間を「非常識」で「怖い!」と断定している。それに対して『ガンニバル』では主人公の柳楽君が3つの文化圏のどれが正しいかで揺れ動いているし、彼もかつて犯人を殺した警官なので、誰が常識人で、誰が非常識なのか・・・彼も観客もどんどんわからなくなるように描かれています。

つまり『ガンニバル』において非常識なのは、都会人でも田舎の人でも奥地の人でもなく、むしろ「相手を非常識だと認定すること」そのものが悪だと感じるように描かれているんですね。
世界を差別なくフラットに捉える・・・これってまさに21世紀的なインターナショナルなテーマじゃないですか。

では世界をフラットに描写する映画のためには、俳優はフラットに役作りして演じるべきでしょうか?・・・それが大間違いなんです。

俺は正しい!私は正しい!という演技。

3つの文化圏をフラットに描写するためには、それぞれの文化圏の正当性を俳優たちが演じ切る必要があるんです。平等に描くとは3つを同じように描くということではなく、それぞれの独自性をしっかり描くという事ですから。
なので『ガンニバル』の俳優たちは全員自分が属しているコミュニティが一番正しくて、あとはろくなもんじゃないと思いながら演じています(笑)
主人公の警官ですら自分が過去に犯人を撃ち殺したことを悪いことだったと思ってはいません。そこには理由があった・・・ただその件で家族に迷惑かけたと思っているだけです。

面白いですよね。一番差別的な表現をしない映画を撮るためには、俳優たちはなるべく視野を狭くして、自分のコミュニティだけが正しいと思いこむ必要があるんですから。

だから『ガンニバル』にはあんなにも変な人物ばかり出てくるのに、「狂人」ぽい演技をしている俳優さんが見当たりません。だって誰も狂っていないから。みんな自分たちが一番正しいと思っている、だから俺は正しい!私は正しい!という演技をしているんです。ここが素晴らしい点だと思います。

そう、今の時代は、たとえば意地悪な人物を演じる時に意地悪な人っぽい演技をしてはダメなんですよ。だってその人物は自分自身を意地悪な人間だと思っていないんですから。非常識な相手に向かって罰を与えてるだけだと、むしろ正しい行為をしてるとすら思っているんですから。
意地悪な人間を演じる時、俳優はその人物を「私は正しい!」という感覚で演じるべきなんです。

自分のことを非常識だと思ってる人間はいないんです。なので非常識な行動をする人物であればあるほど、俺は正しい!私は正しい!という感覚で演じるべきなのです。

邦画新世代。

この複数のコミュニティを描く際に、どのコミュニティにも視点を置かずにフラットに描く手法で撮られた映画、最近の邦画では『あのこは貴族』もそうでしたね。
平民階級と上流階級と貴族階級、3つの文化圏のぶつかり合うさまをリアルに生々しく描いた傑作でした。
あの映画でも俳優たちは、自分のコミュニティが正しくて、それ以外のコミュニティの人達のことを「信じられない!」というスタンスで演じていましたよね。お互いにお互いを「え?」「マジかよ?」と思い合ってました。

映画は時代の変化と共に変化するもの。
この新しいスタンスの演技&演出が行われていること。そういう映画にボクは邦画新世代を感じるんですよねー。そしてきっとこの新世代の邦画こそがインターナショナルで評価される作品になるのではないかという予感があります。

ドラマ『ガンニバル』はディズニー+で独占配信中です。
2020年代の『悪魔のいけにえ』だと思って観ると、倍面白いですよw。

小林でび <でびノート☆彡>


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?