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『あのこは貴族』の素晴らしき「反応」の芝居。

映画『あのこは貴族』を見ました。

欧米の上流階級が舞台の素晴らしい映画ってたくさんあるけど、日本でそれをやると芝居が嘘っぽくなっちゃったり、描写として成功してるのをあまり見たことがなくて、どうかなーと思いながら恐る恐る見てみたのですが・・・いやいや大傑作でした。

特に映画前半。日本の上流階級の豪華絢爛さをこれでもか!っとばかりに見世物的に見せてゆくのではなく、必要最小限のおさえたビジュアルでもって、彼らが何を大切にしているのか、彼らにとっての普通ってなんなのか等々についてを丁寧に、しかも台詞とかではなく、彼らの「身体にしみついた所作」や「無意識の反応」で見せてゆくという。

いや~まるで日本の上流階級の人達の生活を覗き見してるような気がしてドキドキしました。

この「身体にしみついた所作」や「無意識の反応」で人物像を見せてゆく、そしてその人物が所属するコミュニティを見せてゆくという演技法 って、最近の欧米の映画などではかなり主流になってきた演技&演出方法だと思うんですが、正直これほどまでのものを邦画で見たのは初めてかも。

たとえば『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』の監督グレタ・ガーウィグの演出、主演のシアーシャ・ローナンの演技みたいに。

各人物を先入観やデフォルメで見せていくのではなく、「身体にしみついた所作」や「無意識の反応」をしっかり撮影して見せてゆくのですが、これが超さりげなく表現されているのに・・・ちゃんと観客に届く!という。

あれが邦画で見れるとは思ってなかった。『半沢直樹』が大ヒットするこの国で(笑)。「やばい!これは邦画にもついに新しい世代が出てきたのかも!」と正直思いました。

門脇麦の素晴らしき「反応」の芝居。

『あのこは貴族』の物語は、上流階級の家で従順に育った華子(門脇麦)が、そのさらに一つ上、スーパー上流階級の幸一郎(高良健吾)とお見合いして、さらに庶民階級の美紀(水原希子)と出会って、自分の生き方についてはじめて自分の意志で考え始める、といった内容。

主人公・華子を演じる門脇麦さんの芝居が素晴らしいんですよ。

冒頭10分間、特に演技っぽい演技をしてないんです、主役なのに。ただ周囲の人達や出来事に対して地味に「反応」してるだけなんです。そんなの退屈そうじゃないですか。でも・・・それでしっかり華子という人物像は観客に伝わって、しかも共感すらしてしまうんですよ。

上流階級である華子は、庶民である観客には共感しずらいはずなんですよね。ではなぜ華子は冒頭10分で共感されるのか・・・それは門脇麦さんが能動的に「上流階級のふるまい」を演じるのではなく、受動的に「人間の反応」を演じているからです。

「人間の反応」の部分に上流階級も庶民も無いですからね。「わー、わかる。親族の集まりで結婚はいつか?とか聞かれるのきついよねー」とか「彼氏にふられたって家族に報告するのきついよねー」とか、その上流も庶民も無い地味な「反応」がしっかり観客に伝わって、冒頭10分でいつの間にか庶民の観客も上流階級の華子にライド出来てしまっているんです。

そして完全に華子にライドした状態で、さらにスーパー上流階級の幸一郎の世界や、庶民の世界に飛び込んでゆくという・・・めっちゃよく出来てるんですよね。

これは門脇麦さんの芝居が、上流階級の女の子ってこんな感じでしょ?みたいな説明的な「アウトプット」の芝居ではなく、その逆の「インプット+反応」の芝居で演じられているからなんですよね。華子が「何をどのように感じ、どう反応するか」が演じられているので、小さなリアクションの芝居が続いていても、それは瑞々しく観客の心に刺さってゆくのです。

役の人物として反応する。

まず最初の方の帝国ホテルの料亭での家族の食事会のシーン。
あのシーンを見て「うわ!」と思いました。雑談のコミュニケーションの芝居の中で、この家がどんな家なのか、家族内の人間関係や力関係、そして華子がどんな立場なのか等々が、全てさりげなく表現されているんですよ。

しかもそれが台詞の内容でなく、雑談の会話の回し方・コミュニケーションの仕方で表現されているのを見て、この映画は邦画にしては珍しいくらい人間関係の芝居がしっかりしているぞ!と思ったんです。

門脇麦さんがインタビューでこう語ってました。

「華子を演じる上で、意識的に表情をつけていくことはしていないですね。華子って意思も自我もなくて、周りの人物たちとの芝居の積み重ねの中からしか生まれてこないキャラクターなんですよね。
だから幸一郎さんを前にすると、こんな顔をするんだとか、お母さんたちの前ではこんな顔だよねとか、シーンごとにその都度、少しずついろんな顔が見えてくるという感じで、究極の受け身で何をやっても手応えがなく、日々不安でした(笑)」

わかります。反応の芝居って上手くいってる時こそ上手くいってる実感が無いものなんですよねー(笑)。
これって『ベター・コール・ソウル』などの「欧米の最新の演技法」と同じなんですよね。能動的に「アウトプット」で人物像を見せてゆくのではなく、受動的に「インプット+反応」で演じて観客が人物像を発見してゆくスタイル。

俳優として「反応してるかのように演じる」ではなく、華子として「実際に反応する」んですよ。これは門脇麦さんが深い部分で華子とシンクロできているから出来ること。 門脇麦さんは映画の前半、素晴らしくリラックスした状態で華子を演じ、瑞々しい反応に溢れています。

ところが・・・残念なことに映画のラスト近くの華子が美紀の部屋に遊びに行ったシーンで、そのリラックスが途切れて、反応が消えるんですよね。門脇麦さんが「反応」をアウトプットとして演じ始めてしまうんです。

華子は部屋で居心地悪そうなんですよね。セリフでは「おちつきます」と言っているんだけど、閉じている。部屋の中を見せてもらうくだりも目が泳いでいて「見たい」という衝動や興味が薄い。なので深くインプットできていないんだと思うんですよね。「インプットなくして反応なし」です。

すごくいいシーンで、ここでの体験が華子の人生を大きく変えるシーンなんですけどね。いや~。なのでここ以降のシーンはボクは華子にライドすることなく、客観的に華子の人生を眺める感じで最後まで見てしまいました。いや~残念。

各階級すべてが平等に描かれている。

あと『あのこは貴族』が面白かったのは、華子・幸一郎・美紀という各階級階層が、誰も悪者にすることなく平等に描かれていることですね。

映画ではホント金持ちが悪人やバカに描かれることが多くて(笑)、庶民の味方のつもりなんだろうなーと思って見ているんですがw。
『あのこは貴族』ではそれぞれの階級階層がそれぞれに自由な部分と不自由な部分があって、どこで生きてゆくのも大変だよね、という風に描写されているように感じました。このあたりも2020年代の正しい映画っぽいですよね。(男性をバカに描いてる傾向がちょっとあるかな、とは感じましたがw)

よくある取ってつけたようなポリコレではなく、監督・脚本の岨手由貴子さん、そして原作者の山内マリコさんがこの2020年代の日本を、そして世界をどのように見ているかが、しっかりと作品に反映されている・・・しかもワクワクドキドキできて楽しい。邦画の大傑作です。

字数が尽きたので書ききれませんでしたが、高良健吾さん・水原希子さんの演技も素晴らしかったです。

ちゃんとそれぞれの階級階層の目線で世界を見ている芝居、そして彼らから見えない部分に関しては見えていない芝居。 いや~『あのこは貴族』はこの現代的な人物描写の在り方が見れる貴重な一本なので、特に邦画の俳優さん達は必見だと思いますね。
NETFLIXで見れますので、ぜひぜひおすすめです☆彡

小林でび <でびノート☆彡>


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