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「濱口メソッド」の響き合う芝居。『ドライブ・マイ・カー』

カンヌ映画祭で4冠受賞の偉業を成し遂げた、西島秀俊主演・濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』。

上映時間3時間という長さにビビって、正直観るのを先延ばしにしてきたのですが、演技評のリクエストが入ったのでw、重い腰を上げて吉祥寺オデオンまで観に行ってきました。

・・・至福の3時間でした。

予告編を見て淡々とした映画なんだろうなーと思ってたんですが、意外にも超エモーショナルな映画でした。泣けたし。

なんだかすべてが切なくて、すべての出来事が気になって、ハラハラしてしまって・・・結果3時間全くダレることなく見続けることができました。さらにもう3時間くらい見たかったくらいw。これは青山真治監督の『EUREKA』以来の感覚でした。

俳優の演技的には前作『寝ても覚めても』でも展開していた「濱口メソッド」(と呼ばれるのは濱口監督自身は抵抗があるらしいですがw)が、今回の『ドライブ・マイ・カー』では大きな大きな成果を上げています。前作とは比べ物にならないくらい芝居が瑞々しく、そして我々観客の心をがっつり巻き込んで3時間の地獄巡りに引きづり回しています。

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台詞にニュアンスを込めない!

話題の「濱口メソッド」とは・・・濱口竜介監督の独特の演出手法です、演技法ではなく。本番前の本読みの時間をしっかり取ってやる。忙しい有名俳優さんたちを一堂に集めるのは大変なのですが、それを頑張ってスケジュールを合わせてもらって何度もやる。

そしてその本読みの際、俳優のセリフの読み方に一切のニュアンスを込めることを禁止し、そして脚本上の「…」や「、」などの間までしっかり再現してもらい、様々なスピードや音量で喋ってもらって、脚本に書かれたセリフを俳優の身体に入れて行くというメソッドで、俳優たちは本番で初めてセリフにニュアンスを入れることを許されるのだそうです。

ボクはずっと「感情を込めずに早口でセリフの練習をする」ことを推奨してきたんですが、おそらく意図はそれと近いところにあると思います。俳優が台詞に独自にニュアンスを込めようとするとき、それを観客に伝えるためについ説明的・記号的になってしまう・・・それが芝居の雑音になってしまうことが非常に多いのです。

この濱口メソッドの演出の一端は『ドライブ・マイ・カー』の舞台稽古のシーンで垣間見ることができます。すごく興味深いシーンでした。
本読みでニュアンスを消すことに俳優たちが苦しんでました、わかる(笑)。感情を込めずに喋るっていうのと、無感情に読むっていうのは全然違うことで、俳優はつい感情を込めて台詞を読んでしまう。で、散々その本読みを繰り返して、いざ立ち稽古が始まった時・・・何かが生まれる。

このやり方だと本番で初めて相手役の生きた言葉に触れることになり、俳優は今まで無表情だった相手の言葉が活き活きしていることに感動するのだそうです。なので瑞々しく反応できる。そこで発生するニュアンスはもはや説明的・記号的なものではなく「何かが起きている」。もっと豊かなコミュニケーションのディテールを含んでいると。

実際『ドライブ・マイ・カー』における西島秀俊さんの芝居は、見たことがないくらい瑞々しくて新鮮です。表情の小さな小さな変化すらも観客に認識され、その心情を観客が「感じる」ことができます。

そう。説明的・記号的な演技が全くなくても全てが観客に伝わっているんです。

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脚本に立ち返る。

本読みをニュアンスで演じることを封じられた俳優たちは、もう脚本に書かれた人物に真っ向から取り組んで、その人物の生理や人生観や倫理観と向かい合わざるをえない。

これを歌唱に例えれば・・・歌手が自分独自のニュアンスで誰かの曲を歌うと原曲と別の曲になってしまうのと一緒で、まだ一人で歌う曲の場合はそれでも問題ないのだけれど、芝居っていうのは一人芝居でもない限り複数の人間で演じる「合唱」なわけです。合唱する人達がそれぞれに独自に勝手なニュアンスをつけて歌っていたら曲は滅茶苦茶になってしまいます。

なのでまずは原曲の譜面通りに歌うことに立ち返る必要があるんです。そうすると2人の歌は徐々に小さく響き合いはじめ、そしてそのお互いの響きにお互いが影響を受けあうことで、その2人ならではの素敵な二重唱が仕上がってゆく。

それが『ドライブ・マイ・カー』の2人の女優の公園での稽古のシーンであり、車内での西島秀俊とドライバーの芝居なのだと思います。車の中、運転席と後部座席でほぼ無言で、視線も合わさぬ小さな小さな芝居がこんなにも響きあって観客の心を打つなんて・・・。

そう、「濱口メソッド」のキモは、余計なニュアンスを取り除くことよりも、まず脚本の意図する人物像や言葉に立ち返って、そこから俳優同士をしっかりと響き合わせることにあるのだと思います。

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小さな小さな芝居が響き合う。

この「小さな小さな芝居が響き合う」という芝居、この演技ブログ「でびノート☆彡」で最近何度も出てくるテーマですよね。

『クイーンズ・ギャンビット』の「意図して」「意図せず」2つの感情表現。】の回と【『少年の君』の泣ける観察と迷走の芝居。】の回で触れた「小さな小さな芝居が観客の心を大きく打つ」というやつで、『ドライブ・マイ・カー』のコレはアメリカ・中国で起きたその現象の日本版だと思います。

この「小さな小さな芝居」の共通点は3つあって、それは
①インプット:俳優が開かれていて環境に反応できること。
②アウトプット:その反応が説明的・記号的でなく、日常生活サイズ(微細)であること。
③シチュエーション:その人物たちが置かれた状況や雰囲気が撮影・照明・録音によって分かりやすく観客に伝わっていること。

これらの3つの要素が揃った時に、その小さな小さな演技は大きく拡大されて観客の元に届くのです。

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進化する「濱口メソッド」。

前作『寝ても覚めても』では①と③は揃っていたのですが、②のアウトプットが観客に届かなかった。俳優たちの芝居が「説明的・記号的なニュアンスを帯びない」ことを気にしすぎたのか無表情になってしまい、俳優の内面で起きている様々な出来事が観客からは見えなくなってしまった。

なので俳優たちの間で起きた小さな小さな反応が客席まで届かず、その結果、行動の意味が観客に飲み込めない瞬間が発生して、多くの謎を観客に突きつける結果となったんだと思います。麦と朝子が急に北海道に向かうくだりは「なぜ???」って感じだったんですよね。登場人物と一体化することができなかった。

『ドライブ・マイ・カー』はその点、②のアウトプットもしっかりと観客に伝わったので、北海道まで急にドライブをするという西島の突飛な行動の理由はわからなくても、心情的・主観的に観客も乗ることができ、観客も一緒に北海道までの旅をするような感覚を味わうことができたのだと思います。

妻の浮気を目撃した西島がそのことを妻に告げない理由も、ラストあたりでセリフで語られますが、それ以前に心情的に観客にしっかり伝わったので、観客はなんとなくそういうことなんだろうなーと理解することができた。

それに対して岡田将生演じる高槻がカメラマンを殴り殺したことに関しては「なぜ???」が最後まで観客に残ってしまったのは、おそらく②のアウトプットがうまくいってなかったからだろうと思われます。(車の中で西島に延々と夢の話をするくだりの芝居は素晴らしかったです)

三浦透子演じるドライバーみさきは映画前半謎の人物でしたが、後半すごい勢いで観客と繋がっていって、北海道の実家あたりでのシーンでは彼女の一挙手一投足・心情が観客と完璧にリンクしていて、泣けました。心の沁みるシーンでした。

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これやっぱり3時間必要な映画ですよ。

予告編を1分かそこら見ただけでは伝わらない、そんな観客自体がその世界に包み込まれてゆくような演出・・・「濱口メソッド」素晴らしかったと思います。

濱口竜介監督が今後どんなアプローチで映画を撮ってゆくのか、すごく気になります。それはきっと未来の映画の観客の心と繋がるようなアプローチに違いないので。 邦画が楽しみになってきました。

小林でび <でびノート☆彡>

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